あれから10年《東日本大震災》Lapiz編集長 井上脩身

田老「万里の長城」の10年
~人はなぜ逃げないのか~

田老4巨大防潮堤.

私には今も目に焼き付いて離れない1点の新聞写真がある。「万里の長城」といわれた岩手県宮古市田老の防潮堤を乗り越える津波をとらえた写真だ。2010年6月15日付の毎日新聞に掲載された。私は掲載日の10日余り前、田老の現場をたずねていた。目にしたのは木っ端みじんに破壊された防潮堤であった。この写真と現場で見た現実を重ね合わせると、津波の破壊力は人知を超えているというほかない。「津浪太郎」の異名があるほどに田老の人たちは津波の怖さを知っていた。にもかかわらず188人の死者がでた。その多くは逃げ遅れたか、逃げる途中だった。なぜ、さっさと逃げなかったのだろう。東日本大震災から10年がたった今なお、その疑問が解けないでいる。

粉々に破壊された防潮堤

吉村昭氏

木っ端みじんに破壊された「万里の長城」(2011年6月) 私が田老を訪ねようと思ったのは、吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読んだのがきっかけだ。吉村氏は三陸を襲った明治29(1896)年と昭和8(1933)年の津波を丹念に取材し、1970年に同書を著した(原題、「海の壁」)。田老では明治の津波で1859人が、昭和の津波で911人が死亡した。この悲劇的な経験から、昭和の津波の翌年、旧田老町が高さ約10メートルの防潮堤の建設にかかり、戦争による中断をはさんで1979年に完成させた。総延長2433メートルで二つの堤防がX形に交差した構造。上部幅3メートル、下部幅に至っては最大25メートルもあり、少々のことではびくともしそうにない堅固な造りである。

木っ端みじんに破壊された「万里の長城」(2011年6月)

吉村氏は同書のなかで「大津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことは間違いない」としながら、「津波の力を損耗させるので被害はかなり軽減されるだろう」と書いた。吉村氏は平成の津波を見ることなく2006年に亡くなった。もし吉村氏が健在だったら、目の前の現実をどうとらえるだろう。そんな思いをこめて、私は田老の現場に立った。
防潮堤の内側(陸側)の家々が土台だけを残して流れ去っていたのは、この津波による三陸から福島県に至るほとんどの被災地と同様である。田老で驚愕したのは防潮堤のうち、第2の防潮堤(1965年度完成)が、X形の交差部分近くから粉々に破壊されていることだった。田老港の形状などから、この部分が真っ先に津波の直撃を受けたとみられた。しかし、X形と述べたように、もうひとつ内側に堤防がある。津波は内側堤防もやすやすと乗り越えたのである。吉村氏は津波が防潮堤を越すと予測した。だが、海側堤防を粉砕したうえ、内側の防潮堤を越すとまでは予想できなかったのではないだろうか。
188人という犠牲をどうみるべきなのだろう。明治や昭和の津波に比べると死者は確かに少ない。しかし、「万里の長城」はこの188人を守らなかったことも事実である。なぜ188人もの命が奪われたのだろう。

津波目前に生じる迷い

三陸鉄道の列車から降りる幼稚園児(2013年10月)

2013年10月、田老を再訪した。漁港の整備にようやくとりかかってはいたが、破壊された防潮堤は、残骸がとりのぞかれたものの、無残でかつ寒々とした様相を呈していた。三陸鉄道の田老駅のホームに上がってみると、赤と青のラインが入った列車から7、8人の幼稚園児が降りてくるところだった。先生にさよならを言って帰っていく子どもたちの屈託ない表情に心が和んだ。その半面、もしこの子たちが田老でずっと生きていくなら、その人生のどこかで新たな津波に見舞われるかもしれないとも思い、胸に鈍い痛みがはしった。
この子たちの家族や近隣の人たちのなかに188人のだれかがいたのではないか。私はホームの階段を下りていく子どもたちの後ろ姿を目で追いながら、犠牲者のことをおもった。なぜ逃げなかったのだろう。
旧田老町は、明治と昭和の経験から、背後の山に迅速に逃げられるよう道幅を広くし、山の斜面にいくつもの階段をとりつけた。2003年、「津波防災の町」を宣言、「津波に挑戦」を合言葉に、昭和の津波が起きた3月3日には避難訓練を行ってきた。住民は避難が第一であることを学んだはずだ。海際から高台まで、遠い所からでも歩いて10分もかからない。津波警報がでてからでも十分逃げ切れたはずだ。
図書館をたずね、NHK東日本大震災プロジェクト編『証言記録東日本大震災』(NHK出版)のページを繰った。若狭セツ子さん(取材日=2011年11月19日=現在69歳)の体験談に目が留まった。
若狭さんは田老の自宅に帰るバスのなかで地震に遭い、大津波がくると覚悟した。自宅に戻り、「おじいちゃん、逃げるよ、津波がきたよ」と言ったときは、(津波は)真っ黒になってゴーッと地響きをたてていた。高台の神社に避難することにし、その階段を上がりはじめると、車イスのおじいちゃんがやってきた。5、6人で運び上げようとしていたとき、家が流れだした。このままではみんなが流される。おじいちゃんを車イスからひきずりおろし、かろうじてみんなが避難できた。しかし、この階段でいま一歩のところで津波にのみこまれた人もいた。
若狭さんは間一髪助かったが、バス停からいったん自宅に戻ったことであわや命を落とすところだったのである。若狭さんは「大事なものを持ち出そうと思ったから」という。実際にはその余裕がなくて逃げだしたが、津波が来る前に家から大事なものを持ち出そうとした人は少なくなかった。
田中重好・名古屋大名誉教授は「揺れが収まった後、一生懸命壊れたステレオの脚をなおそうとする人、揺れでぐちゃぐちゃになった室内を片づけようとする人、独り暮らしの老人の様子を見に行く人など、さまざま」としたうえで、「津波から避難を決意するまで、さまざまな迷いがある」と指摘。その迷いは「根本的には、現在おかれている状況がよくわからないために生じる」と分析する。(NHKスペシャル取材班『巨大津波――その時ひとはどう動いたか』(岩波書店)
三陸の人たちは、地震の後に津波がやってくることを知っている。それでも迷うというのである。命の危険が迫っているのに迷う。これはいったいどういうことだろう。

街閉じこめる巨大防潮堤

建設が進められている巨大防潮堤(2019年4月)

一昨年(2019年)4月初め、田老を訪ねた。従来の防潮堤の外側(海側)に、高さ14・7メートルの壁の建設作業がすすめられていた。従来の防潮堤は「万里の長城」の異名の通り、堤防上部は道になっていて、人はそこを歩ける。入江の向こうの沖合まで見渡せるので、朝や夕方はかっこうの散歩コースでもある。しかし、私が目にした新しい防潮堤はただひたすら壁である。津波を阻止することに徹した壁なのである。散策するとか中国の万里の長城に行った気分になれるといった抒情性を拒否した冷徹そのものの壁である。
新しい超巨大防潮堤は岩手県の復興まちづくり計画に基づき、1・2キロにわたって造られる。一部できている超巨大防潮堤のそばに立つと、体を反りかえらせないと上部は見えない。海が見えないどころか、海側の空も見えない。津波から街を守るためというが、私の目には街をモンスターのような壁で閉じこめようとしているとしか思えなかった。
このときの旅は全通した三陸鉄道の「あまちゃん列車」に乗るという目的もかねていた。気仙沼からBRT(バス高速輸送システム)で大船渡市の盛まで行き、盛から宮古まで列車の旅を楽しんだのだった。車窓から見るリアス式海岸の春の海は素晴らしい。しかし、市街地にさしかかると、建設中の防潮堤が視界をさえぎる。海と人の接触が封じられているのだ。
三陸の人々は海とともに暮らしてきた。海を閉ざし、あるいは海から閉ざされて暮らすことは、三陸の人でなくなることを意味する。それでも超巨大防潮堤を造るのは、「何十年か先にやってくる津波から住民の命を守るため」という大きな目的のためであろう。「海が見える生活をしたい」と言っても、「あなたの子や孫、ひ孫が津波に流されてもいいのですか」と言い返されれば、黙って下を向いているしかないだろう。
では、何十年か先に津波がやってきたとしよう。超巨大防潮堤に守られた田老の人たちは、逃げなくてもよくなるのだろうか。
東日本大震災による海岸での津波高は福島県富岡町21・1メートル、双葉町16・1メートル、大船渡市16・7メートル、陸前高田市15・8メートルなどと推定されている。このレベルの津波ならば、超巨大防潮堤をも乗り越えるのである。地球温暖化が進むなか、数十年先の気象状況を完全に予測することは難しい。さらに大きな津波に見舞われることは大いにありえるだろう。
最初に田老を訪ねたとき、「万里の長城があるから大丈夫だと思っていた」という話を聞いた。何十年か後の津波のときも「超巨大防潮堤があるから大丈夫だと思ってた」という人が出てくるにちがいない。大丈夫と思おうが思うまいが、津波は容赦しない。はたして人々はとっとと逃げるだろうか。
広瀬弘忠・東京女子大名誉教授は「私たちの心の中には異常な状況に直面したとき、それを無視してしまおうという正常バイアスがはたらく。東日本大震災のような緊急事態ではそれが仇になる。かなり大きな異常があっても、それを大したことがないと思いこみ、本当に逃げないといけない時、避難しないで犠牲になってしまう」という(『巨大津波――その時ひとはどう動いたか』)。
田老の神社の階段であわや津波に流されかかった若狭さんは「地震が来たらまず逃げる。それを子どもたちに伝えたい」と語った。「津波てんでんこ」という言葉が、明治の津波以来、三陸の人たちの間で語り継がれてきた、「何がなんでもとにかく逃げよ」という教訓だ。正常バイアスに加えて「超巨大防潮堤が守ってくれる」という安全神話によって、教訓が無視されてしまわないか。田老駅で出会った幼稚園児たちのきらきら光る目を思い浮かべると心配でならない。