編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 001》Lapiz編集長 井上脩身

『日本美術史』の表紙

私は絵画の愛好者ではないが、時折、手元の『日本美術史』(美術出版社)のページをくって、我が国美術史を彩る作品の数々を図版で楽しんでいる。いわば初心者向けのこの本の表紙を飾るのは、江戸・元禄期の絵師、尾形光琳(1658~1716)の「燕子花図屏風」。カキツバタの群生を鮮やかに描いた光琳の最高傑作だ。美術史の本の表紙に用いられるということは、我が国の美術のなかでも超一級の作品と評価されたということだろう。この絵が多田銀銅山と無縁でないかもしれない、という話を最近小耳にはさんだ。多田銀銅山は私が住む兵庫県猪名川町を中心とした古くからの鉱山である。今は廃鉱になっているが、2015年10月、国の史跡に指定された。このどこかに秀吉の埋蔵金が隠されているとの伝説があり、40年くらい前、埋蔵金探しをしている人を取材したことがある。私にはなじみ深い多田銀山と光琳。本当に結びつくのか。久しぶりに多田銀銅山を訪ねて、カキツバタの絵のナゾを探った。

佐渡銀山に迫る最盛期

JR川西池田駅前の源満仲騎馬像

多田銀銅山は猪名川町を中心に、兵庫県の川西市、宝塚市、大阪府の池田市、箕面市、能勢町、豊能町という摂津北部の山間地域に広がる鉱床群を指す。「多田」の名は、源満仲が開いた「多田荘」にちなむもので、川西市に多田神社があり、JR川西池田駅前には源満仲騎馬像がたてられている。
奈良時代の742年、奇妙山神教間歩で採掘された銅を東大寺大仏鋳造のために寄進したのが銅山の始まり、さらに平安時代の970年、金懸間歩の銀を満仲に献上したのが銀山の始まりと伝えられている。16世紀半ばころから、銀が貿易の決済の手段として重要視され、全国的に鉱山開発が行われた。17世紀半ば、多田で高品位の銀鉱脈が発見され、1661年、現在の猪名川町銀山に代官所が設けられた。以後、猪名川町銀山が多田銀鉱山の中心地となり、採掘職人ら1万人以上の人口をもつ集落が形成された。
多田銀山の最盛期は1670年ころで、年間15トンを生産、石見銀山や生野銀山を抜いて佐渡銀山に迫る我が国最大級の銀山になった。しかし18世紀に入ると生産量が激減、産出量は数トンにとどまった。銅山の最盛期も1660年ころで、年間400トン以上生産された。18世紀に入ると100トンにも満たず、明治になると銀、銅ともに衰退。1944年、日本鉱業が鉱区を買収したが1973年、日本鉱業多田鉱業所が閉山され、長い歴史の幕を閉じた。
現在は代官所跡に展示館である「多田銀銅山 悠久の館」が建てられ、銀銅山の歴史をパネルで紹介するとともに、さまざまな鉱石や採掘道具などを展示。展示館から徒歩数分の銀山川沿いに金山彦神社があり、その隣の青木間歩では、入り口から50メートル先までの坑道が公開されている(3月31日まで修理工事のため閉鎖)。坑道は幅約1メートル、高さ約1・8メートル。壁や天井はゴツゴツとした岩でおおわれており、その表面は素人目にも、ノミで削られた痕がうかがえる。
こうした間歩と呼ばれる坑道のほかに、露頭掘りの跡や、鉱石が露頭している場所もある。坑道を掘る技術が開発される前は、鉱脈の露頭を探し出し、露天掘りをしていたことがうかがえる。
青木間歩の20メートル先に風穴がある。冒頭にふれたが、秀吉埋蔵金伝説を信じて、一人コツコツと金のありかを探す男性の後について、坑内に入ったのを記憶している。両ひざをつかねば進めないほどの天井の低い坑道だった。中は真っ暗である。埋蔵金があるとは思えなかったが、仮に金銀が隠されたとしても、見つけ出すのは不可能だと思った。今思えば、そこは風穴であったようだ。40年前はこっそり入ることができたのだ。埋蔵金探索男のうわさは猪名川町教育委員会も知っていたであろう。坑道侵入という危険な行為を見て見ぬふりをしていたのかもしれない。何とものどかな時代であった。

銅を扱う大坂の泉屋(住友)

燕子花屏風(左隻)
燕子花屏風(右隻)

 

 

 

 

前項はおおざっぱな多田銀銅山の説明である。尾形光琳は元禄の人だ。もし関係があるなら、多田銀銅山の最盛期に、何らかのつながりができたはずである。
そもそも「燕子花図屏風」をかくために必要なのは銀なのか銅なのか。
「燕子花図屏風」は光琳が44歳のころに描いたといわれる縦150センチ、横338センチ、六曲一双の屏風画。カキツバタの名所、三河の八つ橋で写生したもので、カキツバタの群生を群青と緑青の顔料を使ってリズミカルに描きだしている。
緑青は銅が酸化してできたサビ。群青は藍銅鉱の原石で、その細かい粒子は白緑といわれる。いずれにせよ、多田銅山の銅が「燕子花図屏風」の顔料となり得るかがポイントであろう。
猪名川町が九州大学総合研究博物館の協力を得て編集した『国史跡多田銀銅山~銀山攻略第二巻 役所関連遺跡の調査~』には、「江戸時代、銅の鉱石(鉑石)、あるいは銅鉛の鉱石(白目鉑)を産する群脈を奇妙山親鉉、七宝山親鉉から伸びる鉱脈と見ていた」とある。これらの銅は大坂に運ばれて鋳造された。光琳に用があるのは商品としての顔料であって、原石ではない。光琳がこの銅に出合うとすれば大坂であろう。
「燕子花図屏風」を描いたとされる44歳(1701=元禄14年)のとき、光琳はできたばかりの大坂銅吹屋を見学している。
大坂銅吹屋は全国の銅山で産出される荒銅を、幕府が統制しやすいよう集積するために建てられた。銅吹屋の中心になったのは泉屋。住友財閥の基である。飛鳥井頼道著『尾形光琳――江戸の天才絵師』(ウェッジ)は銅吹屋を訪ねるときの様子を次のようにえがいている。
光琳たちを乗せた御座船は、東横堀を北に向かって進んでいた。曇り空から生暖かい風が吹いている。心地よい船の揺れに、光琳はついうつらうつらと眠ってしまった。
船上には光琳のほか、いずれも銀座役人の中村九郎右衛門、末吉七郎九郎、日比文左衛門、長井藤右衛門の四名、それに銅吹きの泉屋(住友家)の手代二名が乗っていた。
フィクション混じりであろうが、光琳が泉屋と懇意にしていた様子がうかがえる。あるいは泉屋の方が、著名な絵師である光琳を大いに接待したのかもしれない。ともかく、光琳は泉屋から絵を描くうえで最高級の顔料を手に入れたのはまぎれもない。
大坂銅吹屋に全国の銅が集まることはすでに触れた。多田の銅はワンノブゼンでしかないが、住友資料館の文化11(1814)年の史料に「白目六斤半」の記載があるのは重要だ。白目鉑が多田銅山産出していたことはすでに述べた。この色目鉑が「燕子花図屏風」の群青の顔料になった可能性は否定できない。
(続く)