編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 002》Lapiz編集長 井上脩身

光琳の師、山本素軒

狩野山楽像(ウィキペディアより)

多田銅山の白目鉑だけで光琳と結びつけるのはいささかムリがあろう。
前掲の『国史跡多田銀銅山』に「豊臣秀吉、絵師狩野山楽に紺青間歩の採掘権を与える」と書かれている。紺青は紫色を帯びた暗い青色のことだ。多田銀銅山のホームページには「秀吉によって鉱山開発が進み、紺青間歩では岩絵の具の顔料となる紺青を産出した」とある。山楽は絵の才能に加えて、秀吉に食い込む政治力と商売の才にもたけていたようだ。
狩野山楽(1658~1635)は光琳誕生の23年前に死んでいる。したがって二人に接点はないが、もし光琳が多田銀銅山との間に何らかの関係があるならば、山楽との間にも何らかのつながりがあるはずだ。
狩野山楽は浅井長政の家臣、木村永光の子として近江の国に生まれ、浅井氏が信長に滅ぼされた後、秀吉につかえた。秀吉の命で狩野永徳の養子となって狩野姓を名乗り、天正年間、安土城障壁画などの制作に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に倒れると、山楽が引き継いで完成させ、永徳の後継者と認められるようになった。豊臣家とのかかわりが深くなっていたため、大坂城落城後、男山八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠したが、その後、九条家の尽力を得て、武士ではなく一画工として助命された。駿府の家康に拝謁が叶い、京に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画を制作。長男が早世したため門人の狩野山雪を後継者とし、晩年は弟子に代作させることがしばしばだったという。
こうした山楽の生涯を概観すると、節操がないと言えるほどに変わり身が早い人物だったようである。
そんな山楽が評価される点は、永徳の孫の探幽が江戸に移って活動したの対し、京にとどまって「京狩野」と呼ばれる流派を築いたことであろう。山楽は永徳洋式を

尾形光琳像

継承しつつ、雄大な構図の秀作を生み出し、後の絵師に強い影響を与えた。
京狩野の流れを受けた絵師に山本素軒(~1706)がいる。宮中や公家の画用をつとめていたといわれる。その山本素軒に、光琳は若いころ師事したのである。光琳の妻多代の日記である『多代女聞書』に、「夫光琳が京狩野の山本素軒先生について絵を学び始めるのは、寛文から延宝に改元のあった頃であると聞いております。その頃から西陣の外れにある吉田の店にも、時々立ち寄るようになりました。と申しますのも、光琳の通う山本先生の画房が紫野の船岡山麓にあり、私の実家がその帰り道に当たっていたことと、染料の調合で微妙に色合いの変わる草木染に、夫はその頃、大変関心を持っていたからでございます」と綴られている(『尾形光琳――江戸の天才絵師』。
寛文から延宝に改元されたのは1673年。光琳が15歳のころだ。多代は結婚後、光琳からそのころのことを聞いたのであろう。この記述から、光琳がかなり熱心に素軒の元に通っていたこと、顔料の調合に神経を使っていたことがうかがえる。
素軒の生誕年が不詳であるため、山楽と直接面識があったかどうかは定かでない。ただ、山楽が多田銅山から産出された銅や、そこから生まれる顔料を、素軒が京狩野一門の絵師として分けてもらった可能性は低くはないであろう。そうであるならば、光琳が素軒から京狩野由来の顔料をもらった可能性もまた低くないのである。

伊勢物語への傾倒

銀山地区の街並み

山本素軒(山本家三代目)の二代後の絵師、山本探川(1721~1780)に「宇津の山図」という二曲一双の屏風がある。平安時代の歌物語『伊勢物語』第九段「東下り」にも登場する、駿河の国の東海道屈指の山々を描いた作品だ。この作品は静岡県立美術館に所蔵されており、同館の学芸員は「画面の最上段に群青で海が配されることによって、重層的でかつ象徴的な画面が構成されている」と解説している。
私はたまたま同館所蔵品資料を目にして、この作品のことを知ったのだが、光琳の「燕子花図屏風」と、基本的なところで共通点があることに驚いた。
すでに述べたことと一部重複するが、「燕子花図屏風」も『伊勢物語』第九段の「八橋」の場面を描いているのだ。カキツバタの花は金地にはえる群青をもちい、清々しい色彩にしあがっている。「燕子花図屏風」は1701~1704年ころの作品、「宇津の山図」は1755~1769年ころの作品とされているので、探川が光琳の影響を受けたのかもしれない。それは、素軒―光琳―探川という一派が『伊勢物語』に傾倒していたことを示しているではないだろうか。
『伊勢物語』は平安初期に実在した貴族、在原業平を思わせる男を主人公にした和歌物語集。「むかし、男ありけり」から始まり、『源氏物語』『古今和歌集』を合わせて、平安時代の3大文学ともいわれる。
『伊勢物語』が書かれた年代は定かでないが、11世紀の初頭から半ばまでには完成していたとみられる。一方、源満仲を祖とする多田源氏は院政期に入ると北面の武士として院に伺候しており、『伊勢物語』のころ、武士としてかなりの力をつけていたことがうかがえる。多田源氏という武骨な集団と王朝文学。平安時代の光と影の二つの側面が、ずっと後、元禄の世になって、光琳の「燕子花図屏風」によって結びついたといえないだろうか。
残念ながら、「燕子花図屏風」の緑青や群青が、多田銅山で産出されたものと立証することは、鉱山や美術史に門外漢の私にはできない。だが、銅鉱山がなければ「燕子花図屏風」が生まれなかったことだけはまぎれもない。
「多田銀銅山 悠久の館」は銀山川のほとりに建っている。ふと思った。この川岸にカキツバタを植えてはどうか。群生すれば、「燕子花図屏風」のような光景がうまれるのではないか。狩野山楽には「牡丹図襖」、「紅梅図襖」(いずれも重文)など花を描いた傑作もある。多田銅山に縁が深い山楽も喜ぶにちがいない。
銀山の街は往時をしのびようもないほど、数家の農家がひっそりとたたずんでいる。国の史跡に指定されたものの、休憩所ひとつなく、せっかくの歴史遺産も宝の持ち腐れの感は否めない。地方自治体のほとんどは国からの交付金をあてにしているが、高齢化が急速度で進む中、このままでは廃れていくだけだ。多田銀銅山の例で見たとおり、地方の存亡は地元の歴史や文化遺産を生かせるかどうかにかかっている。(完)