山陽道・明石宿《蕪村の足跡をたずねて》文・写真 井上脩身

0
蕪村が自らを描いた絵(『蕪村 放浪する「文人」』より)

ようやく春めいてきた。コロナ禍のなか、巣ごもりがつづいていたので、海が見たくなった。ふと「春の海――」という蕪村の句が頭をよぎった。讃岐に行く途中、須磨で詠んだといわれている。ならば明石宿で泊まったのではないか。芭蕉の句に「蝸牛角ふりわけよ須磨明石」がある。江戸の俳人は須磨と明石をひとまとめに捉えていたようだ。おそらく須磨で源平合戦を想い、明石で海の幸に舌つづみをうったのであろう。「宿場町シリーズ」ではたびたび芭蕉をとりあげてきた。明石は旅多い芭蕉の生涯の西端の地とされているが、今回はあえて須磨・明石で蕪村の足跡を探った。

敦盛の笛に思いはせる

大蔵谷宿跡の山陽道の街並み

本稿では山陽道としておく。明石宿は狭義では大蔵谷宿とも呼ばれ、西宮宿と加古川宿の間の宿場である。須磨は明石の東約12キロ、徒歩約3時間のところに位置する。
与謝蕪村(1716~1784)は摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれ、20歳のころ江戸に出て早野把人に師事して徘徊を学ぶ。27歳のときに師が没した後、芭蕉を慕い、僧の姿になって東北地方を行脚。宇都宮で編集した『歳旦帳』で初めて蕪村と号した。丹後に滞在した後、42歳ころ京都に居を構え、与謝を名のる。45歳ころ、ともと結婚し、一人娘くのをもうける。51歳のとき、妻子を京に残して徘徊仲間、菅暮牛らがいる讃岐におもむき、多くの絵画を手掛ける。京都に戻ったあと、島原角屋で句を教えるなどして生涯を京都で過ごし、68歳のときに没した。

辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。
蕪村が須磨・明石をたずねたのは冒頭にもふれたとおり、讃岐におもむく途中である。1766年の秋であった。
おそらく蕪村は西宮を朝早くたったであろう。須磨まで約20キロ。ざっと5時間かかる。大阪湾沿いに西にひたひたと進み、お昼ごろ須磨に着いた。海の向こうに淡路島がかすむ。白砂の浜辺と青い松並木に身も心もなごむ。
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
小学校のときに習ったこの句は、この辺りで詠んだのであろうか。
ここから参道を山側に進むと須磨寺。その参道の両側に店が並んでいる。蕪村のころ、そこそこの門前町が形成されていたであろう。参道の脇に弘法大師によってわき上がったとの伝説のある泉がある。長い道のりを歩いてきた旅人たちにとってオアシスの泉であろう。蕪村は68歳のとき宇治田原をたずね、高尾という集落で弘法大師がわかせてみせたという弘法の井戸に出合っている。晩年を迎えた蕪村は、須磨で見た泉を思い出したにちがいない。

須磨寺の参道

ほどなく須磨寺の山門に着く。正式名は上野山福祥寺。創建は886年。真言宗十八本山の第二番札所で、「須磨のお大師さん」ともいわれている。一の谷の源平古戦場は須磨寺の近くだ。敦盛首塚、義経腰掛松など合戦をしのぶ遺跡は蕪村のころ、すでにあったであろう。
蕪村は敦盛の笛に思いをはせた。
平敦盛は清盛の弟・経盛の末子。笛の名手で、祖父の忠盛が鳥羽院からたまわった「青葉」という笛を譲り受ける。17歳で一ノ谷の戦いに出陣、騎馬で海上の船に逃げようとしたところ、源氏の武将、熊谷直実に「敵に後ろを見せるとは卑怯」と呼び止められたうえ、馬から組みおとされる。直実は、美しい若武者の顔を見て首を切り落とすのを躊躇するが、敦盛が「すみやかに首を取れ」というので、直実は涙ながらに首をとった。
この『平家物語』の名場面は能『敦盛』、文楽・歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材にもなった。芭蕉は「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」とひねった。
蕪村は当然この芭蕉の句を意識していたであろう。蕪村は詩情ある句を詠んだ。
笛の音に波もよりくる須磨の秋
波が笛の音に引き寄せられたというのだ。蕪村は波の音のなかに笛の音色を感じたのだろう。
この句の句碑が山門と本堂の間にあり、その脇に敦盛と直実がともに向かい合う騎馬像がたっている。私は敦盛が吹く笛の音を直実が悲しそうに聞いている像の方が、情緒があっていいと思うのだが。
須磨寺では、
西須摩を通る野分のあした哉
月今宵松にかへたるやどり哉
の2首も詠んでいる。

須磨浦の前に広がる海

ところで、蕪村はなぜ「春の海――」と、わざわざ春を強調する句をつくったのだろうか。須磨浦の海を見つめていると、まるで春の陽光を受けたようにきらめいていて、一日中、のんびりとした気分にひたれた、という意味なのかもしれない。
現実の蕪村は須磨でのんびりしているわけにいかなかったはずだ。夕方までに明石宿に到着しなければならない。秋の夕日は釣瓶落としなのだ。

万葉歌人をしのぶ

大蔵谷の本陣跡周辺
明石のシンボルの一つ明石城

蕪村は須磨から浜辺沿いの街道をひたすら西に向かったであろう。一ノ谷の古戦場をすぎると、今は舞子浜とよばれる白浜が延び、淡路島が目の前に迫って来る。明石海峡の荒波が蕪村の耳にざわざわと響いたであろう。
朝霧川を渡ると大蔵谷の集落に入る。大蔵谷宿である。「題目石」と呼ばれる日蓮宗の石碑がその目印だ。現在でも格子窓の長屋風民家、うだつをそなえた家など、古いたたずまいを漂わせている。潮の香のにおう街を蕪村はどのような思いで歩いたのであろうか。
赤い鳥居の小さな祠が目に入る。そのそばに「大蔵地域内千年の史跡」という案内板がたっている。そこには「大蔵谷の地名は『源平盛衰記』にもあり、畿内と畿内以西をつなぐ重要な役割があった」としたうえで「江戸期には山陽道屈指の宿場として栄え、宝永元(1704)年には屋敷294軒、人口1781人、本陣・旅籠61軒、馬40匹、駕仲間80人の記録がある」と書かれている。
蕪村がこの地を歩いたのはすでにふれたように1766年である。この記載の60年後だから、そう大きくは変わっていなかっただろう。
ここから5キロ先の大久保にも宿場が設置され、明石藩が駅馬を整備、松平信之が藩主時代には安藤助太夫が本陣、林家与兵衛が脇本陣をつとめたとの記録が残っている。
松平信之は1659年に明石藩主となり、柿本人麻呂をまつる柿本神社を整備した。1679年、明石から郡山に移り、城下が大火に見舞われ、その救済や建物の再建に尽力。さらに下総古河に転封され、1686年、老中在職中に死去した。
蕪村が明石を訪ねたのは松平信之治世の100年後である。大久保宿には大きな旅籠が十数軒あったといわれ、蹄鉄屋や車大工など、大勢の商人や職人がいて、大蔵谷宿とは比べものにならないほどの賑わいをみせていたという。蕪村は大蔵谷宿を素通りして大久保宿に向かったのではないだろうか。
大蔵谷宿、大久保宿を合わせて、広義で明石宿とみるのが当時の旅人の実感であったであろう。本稿では、この二つの宿場を一体として明石宿ととらえ、話をすすめる。
蕪村は柿本神社に足を運んだにちがいない。現在の明石天文台の裏に参道がある。その入り口に柿本人麻呂の代表的な歌「あしびきの山鳥の尾のしたり尾のながながしき夜をひとりかもねん」の歌碑がたっている。万葉集を彩るこの和歌を俳人・蕪村が知らないはずはない。神社の境内から明石海峡をながめた蕪村。万葉の昔に思いをいたしたであろう。
ふと思った。蕪村の俳句に、大伴家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へは」の歌と共通するものがある、と。「春の海終日のたりのたりかな」は、家持の歌にどこか引きつけられて詠んだのでは、と思のだ。そう考えると、秋なのに「春」としたことも説明がつく。だが、それでは須磨で詠んだという説と矛盾する。しょせん素人の憶測だ。これ以上の詮索はむだであろう。

本陣跡のふしぎな洋館

安藤家本陣跡の洋館

蕪村が大久保宿で泊まったとすれば、ワラジをぬいだ旅籠の近くに本陣があったはずである。本陣をつとめた安藤家には文政・天保年間(1818~43)の文書が多数残っている。その一つ天保8(1837)年の「御用宿並人別銭二而渡し方扣帳」には、薩摩藩や竜野藩などの旅人の名前が多数記載されている。興味深いのは同年2月19日に大坂で起きた大塩平八郎の乱に関する記録。大塩の乱は半日で鎮圧されたが、3月3日、江戸から姫路藩に「加勢せよ」と命じられ、家老・高須隼人以下2000人余りが姫路を出立した。ところが、その日のうちに「必要なし」の連絡が入って引き返し、3月8日、大久保宿本陣に泊まった。この記録によって姫路から西宮まで往復1週間かかったことがわかる。
10月14日の項には「姫路河合様御泊り」と記載されており、安藤家本陣は姫路藩の定宿であったことが裏付けられた。大塩の乱で往路、この本陣に泊まらなかったのは、急ぎに急いでいたからであろう。
大塩の乱は蕪村の明石の旅の70年も後だが、蕪村のころの大久保の繁栄ぶりをしのばせる記録ではある。
安藤家本陣跡に、今、ふしぎな石造の洋館が建っている。ピラミッド型の屋根が朽ち果てていて、まるボルブドゥール遺跡の寺院のようだ。安藤家の当主、安藤新太郎が1919年に建築を依頼したが、完成前に新太郎が死亡、葬儀場として使われただけだという。
この洋館の敷地の隅に「明治天皇大久保御小休所建物」の石碑がある。1885年、明治天皇が西国巡幸の帰路、休憩した建物だという。その建物こそ本陣の建物にほかならない。洋館を建てるに際し、本陣だった建物を移築したと伝えられている。東隣に白壁の蔵をもつ大きな和風邸宅が建っている。屋根も壁も真新しいので本陣の建物ではないようだが、本陣の雰囲気は漂っている。
この本陣跡から東に行くと、住吉神社という小さな神社があり、この境内に松平信之供養塔がたっている。信之死去の1カ月後に建てられたという。明石から郡山、さらに古河へと移っていった信之を領民たちがしのびつづけた証しなのだ。
蕪村がこの地を訪ねたとき、この供養碑はたっていた。蕪村は古河の北隣、結城に27歳から36歳ころまで滞在している。結城紬で知られるこの地で「北寿老仙をいたむ」の詩をのこした。
君あしたに去りぬ ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。岡の辺なんぞかく悲しき。
もし蕪村が慰霊碑の前に立ったなら、この詩を思いだしたはずだ。岡を海に変えれば、おそらく須磨・明石を旅した蕪村の心を表す詩になるであろう。
平敦盛を想い、万葉歌人に思いをはせ、結城で暮らした中年期を振り返る蕪村。須磨・明石の旅は、俳人として心に磨きをかける旅となったのではないか。『蕪村 放浪する「文人」』(佐々木丞平ほか、新潮社)によると、讃岐から京都に帰って2年後に宗匠になり、絵画と徘徊の両面で蕪村ならではのものが生まれるようになったという。そして59歳のとき、蕪村を代表する句を詠んだ。
菜の花や月は東に日は西に
六甲山麓の摩耶山を訪ねたときの句である。摩耶山から須磨・明石に思いをいだいたのかもしれない。

0