びえんと《「アンダーコントロール」を中心に安倍前首相発言のウソを考える》Lapiz編集長 井上脩身

桜を見る会

安倍晋三前首相の後援会が主催した「桜を見る会」前夜祭の参加費用問題に関し、2020年12月25日に行われた衆院議院運営委員会での安倍氏の答弁に私はあきれかえった。平たくいえば秘書のウソを真にうけたというのだ。見えすいたウソをつく方もつく方だが、それを信じたというなら、前首相は社会人としての最低限の判断力もないことになる。それでは7年8カ月にも及ぶ憲政史上最長の政権を維持できるはずがない。安倍氏を大ウソつきとみるしかないだろう。しかし、朝日新聞記者、三浦英之氏の『白い土地――ルポ「帰還困難区域とその周辺」(集英社)を読んで、いささか考えを改めた。安倍という人は、身内や側近官僚の忖度発言にひそむウソを見抜く能力が本質的に欠けているように思えるのだ。単なる世間知らずのボンボンにすぎないのではないか。そのボンボンにウソの情報を流して長期間背後から操った影の人物はいたのでは、という疑念を私はいだいている。 “びえんと《「アンダーコントロール」を中心に安倍前首相発言のウソを考える》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

原発を考える。《本当に大丈夫か、東京電力》一之瀬 明

2011年5月3日福島県飯館村で

またもや東北地方を地震が襲った。2月13日23時8分のこと。地震の規模はM7.3 最大震度は6強と発表されている。この地震は、2011年の東北地方太平洋沖地震の余震ということらしい。
結構な規模の地震だった。問題は福島原発である。東京電力は福島第一原子力発電所へ与えた影響を22日まとめ、原子炉を収めた格納容器の水位の低下傾向が続いていると発表した。おまけに発表まで一週間かかっている。この地震後の水位低下と相まって、地震計「故障」が発覚した。この地震計は福島第一原発3号機の原子炉建屋に昨年設置したもので地震計2基が故障していたにもかかわらず、修理などの対応をせず放置していたため、13日に起きた地震の揺れのデータを記録できていなかったことを明らかにした。

ことの真贋は不明だ。ただ東京電力という会社は素人ながら感じるには、まったく管理能力というか、責任能力が不足しているということに尽きる。反対に隠ぺい能力は抜群だ。どうしてもとても隠せないことや、そういうのっぴきならない事態になって初めて「実は…」と発表する能力には長けている。
まだまだ地震が起こる可能性は高い。メルトダウンした福島原発を管理することの難しさはわかるが、隠ぺいはいただけない。
やはり第三者の目でチェックしてもらうシステムを構築するしかないのではないか。
無論所謂「原子力ムラ」以外のメンバーで。

原発を考える。《全電源喪失した海外の原発 ~過去の事故例から見る重大責任~》井上脩身

福島第1原子力発電所の事故から間もなく10年になる。この間、国も東京電力も刑事上何ら責任を問われることがなかった。裁判で国、東電の責任がないとされたのは、「巨大津波による全電源喪失は想定外」という主張が認められたからだ。私はLapizの「原発を考える」シリーズのなかで、東電内部でも15・7メートルの津浪予測をしていた事実があることから、少なくとも東電幹部には巨大津波を予見できたはずで、明白に刑事上の過失責任がある、と述べてきた。最近、こうした将来の津浪予測だけでなく、過去にも海外の原発では洪水などによって全電源が喪失する事故が起きていたことを知った。国や東電がこの事実を知らなかったはずがない。「想定外」は明白にウソなのである。事故10年の節目を機に、改めて国と東電の責任を問い直さねばならない。 “原発を考える。《全電源喪失した海外の原発 ~過去の事故例から見る重大責任~》井上脩身” の続きを読む

春の宵物語《雪解け》片山通夫

雪解け

雪解けという言葉がある。広辞苑によると「雪がとけること。また、その時。ゆきげ。
〈季語は春〉」
②(ソ連の作家エレンブルグが1956年に著した小説の題名から)東西両陣営間の対立緊張の緩和をいう。
ちょうど今頃の季節、冬の間に積もった雪が、春の暖かさで溶けてゆく様を言う。また溶けた水をいう。溶けたといえ元は雪、手が切れるように冷たい。まだ雪が残っている小川の水が雪の間を流れるさまは春を思わせる。雪国の人々が待ちわびた春なのである。

一方例えば対立するアメリカとソ連が対話の時間を持とうと努力しだした場合もやはり雪解けという。ただし雪の解けた道路はぬかるんで歩きにくく嫌われる。東西両陣営の雪解けも簡単ではない。

シリーズ とりとめのない話《あの一言 003》中川眞須良

人はある程度以上の齢を経ると、なにかにつけ昔を思い出す機会が多くなるものだ。私もそうだが、とくに自分よりも年上の人との会話の一部(例えばひとつの言葉)が、無意識のうち頭の隅にインプットされたのであろう、何かの折にふと思い出す機会が多い。相手との親交の深さ、長さとは直接関係していないことも少し興味深い。

あのときの 「あの一言」と題してそのいくつかの記憶をたどると

大阪日本橋オーディオ専門店 「S」 二階フロアー長Kさん(男性 40歳すぎ)の店内での一言

重い方を選んでください。特にスピーカー、アンプ、レコードプレーヤーは重い方を選んでください。よりメーカーの気合が入ってます、それすなわち良い製品と言うことです。」

その時の K さんの私に対する接客言葉はシンプルで自信を持っていると感じた。

おおよそ次のように・・・・・。、

「オーディオメーカーが各製品の心臓部(シャーシ、電源部、各所トランス.コンデンサ、配線)に基本と理想を求めようとすると、コストは当然上がります。しかしユーザーさんにとってそれは容易にはわかりません。私ら(店員)がこの場でいくら説明しても、パンフレットを何度見てもらっても、電源を入れ稼動させてもなかなか解らないと思います。特に同じ価格帯でメーカーが違えばなおのことです。ほとんどのお客様は もちろん予算内で、デザイン 最新機能 お好みのメーカー等で判断されているようです、とは言ってもたいへん迷っておられます。そんな時の私からの助言は毎回「重量です、重い方を選んでください!」 と申し上げています。」

Kさんのこの一言は1970年代の話であるが、特に記憶に残る要因はオーディオ商品だけでなく車 バイク カメラ 時計から工学機械全般、さらには木工品 家具 調度品 陶磁器など全ての生活用品に共通して言える事と気付き始めたからです。。

2021年の今、技術革新が進み価値観も大きく変化しすべてに通用しない面もあろうが 「器物、百年を経れば魂を得る。」 のもとに生きている私にとって 主義は貫く と言わざるを得ません。オーディオ店K さんを思い出しながら・・・・・。

現在、私の手元にある三つの器物 ステレオアンプ、カメラ(中古品で入手)、そして腕時計(私から希望した結婚お祝い品)。アンプは40年以上、カメラは50年以上、時計は50年近く経た今もトラブルなしで機能し続けている。

3品とも それぞれ重い!

編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 002》Lapiz編集長 井上脩身

光琳の師、山本素軒

狩野山楽像(ウィキペディアより)

多田銅山の白目鉑だけで光琳と結びつけるのはいささかムリがあろう。
前掲の『国史跡多田銀銅山』に「豊臣秀吉、絵師狩野山楽に紺青間歩の採掘権を与える」と書かれている。紺青は紫色を帯びた暗い青色のことだ。多田銀銅山のホームページには「秀吉によって鉱山開発が進み、紺青間歩では岩絵の具の顔料となる紺青を産出した」とある。山楽は絵の才能に加えて、秀吉に食い込む政治力と商売の才にもたけていたようだ。
狩野山楽(1658~1635)は光琳誕生の23年前に死んでいる。したがって二人に接点はないが、もし光琳が多田銀銅山との間に何らかの関係があるならば、山楽との間にも何らかのつながりがあるはずだ。
狩野山楽は浅井長政の家臣、木村永光の子として近江の国に生まれ、浅井氏が信長に滅ぼされた後、秀吉につかえた。秀吉の命で狩野永徳の養子となって狩野姓を名乗り、天正年間、安土城障壁画などの制作に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に倒れると、山楽が引き継いで完成させ、永徳の後継者と認められるようになった。豊臣家とのかかわりが深くなっていたため、大坂城落城後、男山八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠したが、その後、九条家の尽力を得て、武士ではなく一画工として助命された。駿府の家康に拝謁が叶い、京に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画を制作。長男が早世したため門人の狩野山雪を後継者とし、晩年は弟子に代作させることがしばしばだったという。
こうした山楽の生涯を概観すると、節操がないと言えるほどに変わり身が早い人物だったようである。 “編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 002》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 001》Lapiz編集長 井上脩身

『日本美術史』の表紙

私は絵画の愛好者ではないが、時折、手元の『日本美術史』(美術出版社)のページをくって、我が国美術史を彩る作品の数々を図版で楽しんでいる。いわば初心者向けのこの本の表紙を飾るのは、江戸・元禄期の絵師、尾形光琳(1658~1716)の「燕子花図屏風」。カキツバタの群生を鮮やかに描いた光琳の最高傑作だ。美術史の本の表紙に用いられるということは、我が国の美術のなかでも超一級の作品と評価されたということだろう。この絵が多田銀銅山と無縁でないかもしれない、という話を最近小耳にはさんだ。多田銀銅山は私が住む兵庫県猪名川町を中心とした古くからの鉱山である。今は廃鉱になっているが、2015年10月、国の史跡に指定された。このどこかに秀吉の埋蔵金が隠されているとの伝説があり、40年くらい前、埋蔵金探しをしている人を取材したことがある。私にはなじみ深い多田銀山と光琳。本当に結びつくのか。久しぶりに多田銀銅山を訪ねて、カキツバタの絵のナゾを探った。 “編集長が行く《尾形光琳の傑作と多田銀銅山 001》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重

気仙沼津波石碑

 

マグニチュード9・最大震度7という超巨大地震「東北地方太平洋沖地震」が起きたのは2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分のことです。この地震によって大津波が発生、広く日本列島の太平洋岸を襲い、「東日本大震災」という未曾有の大惨事となりました。福島第一原発が津波による電源喪失で水素爆発を起こしたのもこのときです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重” の続きを読む

シリーズ とりとめのない話《あの一言002》中川眞須良

人はある程度以上の齢を経ると、なにかにつけ昔を思い出す機会が多くなるものだ。私もそうだが、とくに自分よりも年上の人との会話の一部(言葉)が、その時無意識のうち頭の隅にインプットされたのであろう、何かの折にふと思い出す機会が多い。相手との親交の深さ、長さとは直接関係していないことも少し興味深い。あのときの 「あの一言」と題した二つ目の記憶をたどる。

桐山 清澄氏 将棋棋士九段のあの一言
1947年奈良県生まれ 73歳。現役最年長 通算勝ち数995 歴代10位 タイトル保持4期
「いぶし銀の名棋士」として ファン多数

「投了を告げた時の盤上には飛車、角の駒が一枚もなかった。私は使うすべなくの完敗、相手は使う必要なくの完勝」
1970年代後半、対局数日後のインタビューの一部であったと思う。当時は氏の絶頂期でありテレビ等で活躍の様子を見る機会が多かった。私は将棋は良くわからないが氏の雰囲気が好きなのである。特に和服姿 細めの黒縁メガネ 少し前屈みのあらゆる仕草、そして少しの寂寥の後ろに見え隠れする「いぶし銀の名棋士」のオーラ、勝負師はこうでなければ・・・と思わせるのである。

さらに今回のこの一言 自分の負けを完敗として認め相手の勝ちを完勝としてたたえる。このインタビューで将棋を知らぬ私はすっかり桐山ファンになってしまっていた。しかしその時のインタビューの言葉の断片の記憶があっても桐山氏の投了時の譜面など知る由もなくさらに、「盤上に飛車、角の駒が一枚もなかった。」とする状況もよく理解できていなかった。
この時から40年以上経過した2020年5月3日、コロナウィルス関連ニュースが紙面を賑わせていたA新聞朝刊の片隅に、毎日連載されている将棋名人戦の途中経過の記事である。この日はたまたま、途中指掛け図と終了図が掲載される日であった。対局者は佐藤康光九段と羽生善治九段、豪華メンバー同士の顔合わせ。さてどちらが勝ったのだろう? 終了図を見ても素人の私にはわからないし そのうえこの図が本当に終了図なのかと思わず独り言をが出てしまった。盤面全体の駒の数が極端に少ないのである。そして次の瞬間桐山氏の「あの一言」と同じではないかと気がついた。図に飛車、角が使われていないのである。それだけではない、私は今まで幾度となくプロ棋士同士の対局終了図を見る機会があったが、このような図を見た記憶は全くない。非常に珍しいケースと思うのであるが、私が勝手に抱く、取るに足らぬ結果なのだろうか。
それらはともかく、この対局の概要は次のようであった。

第78期将棋名人戦 A級順位戦9回戦  於 静岡市「浮月楼」

1、最終9回戦(10人総当り)
1、先手 佐藤9段(両者ここまで4勝4敗)
1、持ち時間 各6時間 投了時消費時間各5時間59分
1、対局開始時間 午前9時 終了時間 翌日午前1時13分
1、対局時間 16時間13分 手数 187手
1、終了時の盤上の内容
   総駒数19 飛車、角、銀の駒なし
   先手(勝者)の陣内(五筋~九筋)に後手(敗者)の駒 なし

1、勝者 佐藤康光あ
1、投了図(上)

 本当に珍しいケースなのか将棋ファンに一度聞いてみたい。そしてこの機に、桐山清澄9段のさらなる活躍を期待したい。
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