Lapiz2021夏号 Vol.38《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

浦島充佳著『新型コロナ データで迫るその姿』(化学同人)の表紙

感染症や疫学が専門の医師、浦島充佳さんの近著、『新型コロナ データで迫るその姿』(化学同人)を読んでいて、懐かしい言葉に出合いました。「ネアンデルタール人」。中学生のころ、旧人類の一つとして習ったように記憶しています。現在は旧人に分類されているそうです。そのネアンデルタール人のもつ遺伝子が新型コロナの重症化と強い相関があると浦島さんはいいます。ネアンデルタール人は3、4万年前に絶滅したとされています。ところがその遺伝子が21世紀の感染症と大いに関係ある、と語るのがほかならぬ浦島という名字の研究者ですから不思議な因縁をおぼえます。コロナ問題は人類が古代から抱えていたのかもしれません。

ネアンデルタール人(ウィキペディアより)

ネアンデルタール人は、西ヨーロッパを中心に中央アジアまで分布していたそうです。2005年、イベリア半島南端の「ジブラルタルの岩」のゴーラム洞窟で、ネアンデルタール人特有の石器類や火を使っていた痕跡が見つかりました。ここではネアンデルタール人以外の人類の手形が見つかっており、住人が入れ替わったことがうかがえます。つまり、ネアンデルタール人とそうでない人類との交差があったのです。浦島さんの本には書かれてませんが、こうし接点があったことで、ネアンデルタール人遺伝子が現在まで生き延びることになったようです。
ネアンデルタール人遺伝子が注目されるようになったのは2020年2月7日、沖縄科学技術大学院大学教授、スパンテ・ペーボ博士らの研究グループが「ネアンデルタール人より受け継がれた新型コロナウイルス感染症の重症化に関わる遺伝子要因」と題する論文を発表したことがきっかけです。ヒトの遺伝子のなかの塩基型(SNP)がコロナ重症化と関連するというものですが、かいつまんで言うと、論文は次のような内容です。
コロナに感染すると、重症化させる働きがある遺伝子(重症化遺伝子)を、人類はネアンデルタール人から受け継いでいる。この重症化遺伝子はインド、バングラデシュなど南アジアで60%、ヨーロッパでは16%の人たちが保有。日本、中国など東アジアの人たちはこの遺伝子を持っていない。
5月8日現在、日本の感染者数は63万5242人、死者は1万846人。フランス(感染者580万、死者41万)、イギリス(感染者444万、死者12万)、イタリア(感染者409万、死者12万)など欧米に比べてケタ違いに少ないのはネアンデルタール人遺伝子を持っていないから、ということになります。
東アジアの人たちが重症化遺伝子を持っていない理由について、ペーボ博士は「現代人の祖先が東アジアでコロナウイルスを含む疫病に襲われ、重症化遺伝子を持たない人たちだけが生き残ったから」とみています。
浦島さんは「ヨーロッパ、南北アメリカでコロナによる死亡率が高く、東アジア~東南アジアで低いのは、ネアンデルタール人遺伝子で説明がつく。しかしながら、南アジアの国々の人口100万人当たりの死亡率は高くない」といいます。

同書によると、人口100万人当たりの地域別死亡数は以下の通りです。
東アジア・太平洋地域=4人
ヨーロッパ・中央アジア=555・5人
ラテンメリカ・カリブ=309人
中東・北アメリカ=206人
アメリカ=1044人、カナダ=406人
南アジア=50・5人
サハラ以南アフリカ=11・5人

同書が刊行されたのは今年3月10日。少なくともその半月前には原稿を書き終えねばならなかったでしょう。インドの新規感染者数は昨年9月の10万人から今年2月には1万人まで減少。ネアンデルタール人遺伝子を持っているにもかかわらず、例外的に抑え込みに成功した国とみられていました。浦島さんは、感染リスクが高い肥満者の比率がインドでは低いことから、重症化遺伝子の働きと相殺した結果、と考えました。
しかし4月になるとインド型変異株が出現し、瞬く間にインド中に蔓延。5月6日には41万2262人が新規に感染し、3982人が死亡するに至りました。5月8日現在、感染者数はアメリカ(3265万人)に次いで2番目の2189万人、死者はアメリカ(58万人)、ブラジル(41万人)に次いで3番目の23万人です。インドでの異常な流行は、重症化遺伝子が関係しているとみるのが自然でしょう。

インド型変異ウイルスは日本でも4月末までにすでに21例が確認されています。そのほとんどは空港検疫で判明したものですが、80歳の女性が感染した例もあるほか、東京都の検査で5月6日までに新たに5例が検出されました。
インドでは酸素ボンベが足らずに次々に死亡しているそうです。日本でインド株が蔓延したらどういうことになるのでしょう。それでなくとも、3月ころからイギリス型変異株が急速度に広がり、医療は危機状態に陥っています。インド株まで入り込めば、多数の人たちが入院できずに自宅で亡くなる、というようなことになりはしないでしょうか。
日本人は重症化遺伝子を持っていないのですから、インドのようにはならないと期待したいところです。ところが、日本人はインド株に対する免疫力が低いとの研究結果が報告されました。東大や熊本大の研究チームの実験によって、インド株のL452Rという変異が、HLA―A24という白血球の型がつくる免疫細胞から逃れる能力があることが判明したのです。この白血球の型は日本人の6割がもっているそうです。インド人は3割しかもっていないので、単純に考えれば日本の方がインドの倍の感染リスクがあることになります。
そのような恐ろしい事態は、想像するだけでぞっとします。日本人はネアンデルタール人遺伝子がないのですから、インドのようにはならないと思いたいところです。しかし、願望だけで感染を防ぐことができるなら誰も苦労しません。日本はいま正念場を迎えているのではないでしょうか。

菅義偉首相は4月25日、東京都、大阪府、京都府、兵庫県に緊急事態宣言を発令、5月11日の期限がきても感染を抑えられなかったため、5月31日まで延長するともに、愛知、福岡の両県も追加発令しました。一方、4月12日から始めたワクチン接種について、65歳以上の高齢者には7月中に終わらせると菅首相は表明しました。仮にワクチン接種がスケジュール通り進んだとしても、64歳以下が未接種であるかぎり、コロナを収束させるのは容易ではありません。不幸にしてインド株ウイルスが猛威を振るうようになれば、第3波、第4波を超える荒波に見舞われることは必至です。はたして東京オリンピックは開けるのでしょうか。
すでに述べたように、日本人はネアンデルタール人遺伝子をもたないおかげで、欧米よりもはるかに感染者が少なくてすんでいます。にもかかわらず、全国的に医療が逼迫し、大阪府、兵庫県を中心に医療崩壊が始まっています。これはいったいどういうことなのでしょう。びえんとで、医療崩壊の原因を探ってみました。