編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 上》Lapiz編集長 井上脩身

――無観客でも開くという邪道――

高校駅伝で入賞争いをするアンカーの女子選手(京都市の西大路三条で2011年12月25日)

私は自宅の壁に、額にいれた一枚の写真をかけている。2011年12月25日、京都で行われた全国高校駅伝競走大会での女子選手を沿道から撮った一点だ。選手の、うちからみなぎる力を感じるこの写真は私のお気に入りなのだ。オリンピックマラソンコースでテスト大会を兼ねて札幌チャレンジハーフマラソンが無観客で行われた5月5日も、いつもの朝のようにこの写真の前でテレビ体操をした。写真には観客が写っていないが、沿道は観衆の熱気に包まれていた。かりにオリンピック、パラリンピックが無観客で行われるならば、大会としての意味をなすのであろうか。そもそもオリンピックとは何なのだろう。スポーツ観戦が好きな私であるが、コロナ禍のなか、「何としてでも開催する」というIOCや政府の姿勢に素朴な疑問をおぼえた。

ケニア留学生の高校駅伝

高校駅伝で独走するワンジル選手(京都市北区烏丸紫明付近で2002年12月22日)

私が住む兵庫県では1月13日に2回目の緊急事態宣言が発令され、2月28日に解除された後、一時、まん延防止等重点措置実施地域に指定、4月25日、3回目の緊急事態宣言が発令された。行動自粛が求められるなか、私に与えられた「編集長が行く」企画をどうするか、頭を悩ました。冒頭に述べた女子駅伝写真はLapizの編集長を引き受けて1カ月後に撮影したものだ。「編集長が行く」企画の写真になり得る、とひらめいた。
この駅伝大会にはいささかの思い出がある。
私は高校生の書道大会の開催事業にかかわったことがある。2002年、ケニアから陸上選手として仙台育英高校に留学していたサムエル・ワンジルさんが「国際高校生選抜書展」で大賞を受賞。その彼が同校のエースとして駅伝大会の1区に出場することになり、私は写真を撮りに行ったのだ。京都市北区の烏丸紫明付近で待ち構えていると、ワンジル選手はトップを独走、区間賞を獲得した。彼が2年後の3年生のときに3区でだした22分40秒は今なお区間最記録である。
ワンジル選手は2007年の福岡国際マラソンで優勝し、ケニア代表として2008年の北京マラソンに出場。レース用シューズをケニアに忘れ、しかたなく練習用シューズで試合に臨んだが、2時間6分32秒という五輪新記録で金メダルに輝いた。ケニアのヒーローとして脚光を浴びたが、2011年5月、ケニアの自宅バルコニーから転落して死亡。後頭部に殴打痕があることから他殺の疑いがもたれた。
私は彼の死を新聞報道で知って、烏丸紫明のカーブを、まるでNHKの取材バイクを従えるように颯爽と走る姿を思い浮かべた。沿道からは大きな歓声とためいき、そして拍手。彼は観衆が発する感動の息吹の中であればこそ、その韋駄天ぶりが光輝いたのだ。北京でも晴れやかな光芒のなかを走ったはずだ。その栄光からの暗転に思いをはせていて、1964年の東京オリンピックでの一コマが蘇った。

アベベ選手と円谷選手

東京五輪マラソンでトップを走るアベベ選手(1964年10月21日=ウィキペデアより)

1964年の東京オリンピックが開幕する1カ月近く前、友人に「陸上競技の入場券が2枚あるから」と誘われ、私は国立競技場でオリンピックを見ることができるという幸運にワクワクした。ところが約束の10月21日、いくら待っても会うはずの場所に彼はやってこない。あきらめて競技場近くをうろうろしていると、広い道路の歩道に大変な人垣ができていた。もうすぐマラソンランナーがもどってくるというのだ。
20分ほど待っていると一人の黒人選手がダントツで走ってきた。エチオピアのアベベ選手だ。
アベベ選手は東京の前のローマ大会で裸足で走り、金メダルをとった。たまたまシューズが壊れ、現地で合う靴がなかったため裸足で走ったと後に伝えられが、エチオピアでは裸足で走っていたらしい。「裸足のアベベ」は彼のトレードマークになっていた。
私は彼の足に視線を向けた。白色のシューズを履いている。その白が秋の日を受けて鮮やかに私の目に映った。だれかが「靴で走ってる」と驚いた声が今も耳の奥に残る。アベベについての私の記憶はその靴だけだ。彼が何色のシャツやパンツであったかは全く覚えていない。いや、よく見ていなかったのかもしれない。
アベベからかなり遅れて円谷幸吉選手がやってきた。あごを上げ、苦しそうに体を揺らしながら必死に走っている。素人目にも限界ぎりぎり。見ている方も胸が裂かれそうな思いになる。「ガンバレ、つぶらや」。悲痛な声援を耳に受け入れる余裕はなかっただろう。彼はイギリスの選手にデッドヒートのすえ、ゴール寸前に追い抜かれた。ということは競技場の外にいた私は知らない。後で銅メダルだったと知った。当然、人は「もうちょっとで銀メダルだったのに」と残念がる。しかし、私は「死ぬ思いでゴールにたどりついたのだ」とおもった。
円谷選手はその後、持病の腰痛が悪化、脊椎版ヘルニアの手術を受けたが復調できず、1968年、自ら命を絶った。アベベ選手は3連覇を目指して次のメキシコ大会に出場したが途中棄権。半年後、アジスアベバ郊外で自動車事故を起こし半身不随に。ミュンヘン大会にはゴールドメダリストとして招かれたが、1年後、脳内出血で死亡した。
ワンジル選手、アベベ選手、そして円谷選手。私はたまたま沿道から彼らを目にしただけに、その早すぎる死にやるせない思いがつのる。なぜ彼らは死なねばならなかったのか。世界のトップランナーとは真逆の、平凡な人生をたどってきた私に解けるはずはないが、他人事ではない気がするのだ。

沿道がにぎやかな箱根駅伝

箱根駅伝で力走する選手(神奈川県平塚市花水台付近の国道1号で2017年1月2日)

沿道での観戦といえば、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)にまさるにぎやかな大会はないであろう。私は2017年1月2日、3区から4区につなぐ平塚中継所の近くで観戦した。
ランナーが到着する1時間以上前から、駅伝コースである国道1号の歩道はぎっしりと人でつまっていた。私は花水川にかかる橋のたもとに、人垣をかきわけて陣取った。取材ヘリがトップを行く選手の上空を飛んでいるので、選手の現在地の見当はつく。観衆は配られた主催新聞社の小旗を手に、かたずをのんで待ちかまえる。
冬とは思えないほど穏やかな日和であった。海は目の前である。マリンスポーツのメッカである相模湾のビーチから、かすかに潮の香が漂ってくる。加山雄三の「若大将シリーズ」の場面を思い描いていると、トップのランナーが姿を見せた。予想通り青山学院の選手だ。小旗が激しく振られる。青学の卒業生と思しき中年の女性が「アオガク、アオガク」と金切り声をあげている。女性は選手を追おうとしたが、歩道は満員電車なみにギューギュー詰めなので身動きできない。最終ランナーが目の前を走り抜けたころ、取材ヘリは旧東海道の名残である大磯の松並木の上空辺りを飛んでいた。
このときも私は写真を撮るのが目的だった。純粋に声援目的という意味では、2014年4月の阪神甲子園球場での観戦が懐かしい。私は根っからのタイガースファンである。趣味の川柳の仲間に誘われてヤクルト戦を、小型バットをかたどったカンフーバットなどの応援グッズを手にアルプススタンドの中段から声援。点の取り合いになり、手に汗をにった。ラッキーセブンには風船を思いきり飛ばすなど、私たちは大いに発散したものだ。(明日に続く)