昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校 2》元民族新聞記者 鄭容順

前回の記事
昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校》元民族新聞記者 鄭容順
https://bit.ly/3zjlmON

李愚京元理事長(右)宋基泰元理事長(左)

京都国際高校は春の選抜高校野球大会に初出場した。創部以来の念願がかなった。対戦相手、宮城県代表、柴田高校に勝利したが、次の東京代表、東海大菅生高校には敗退した。しかし、柴田高校の勝利に韓国語の校歌が甲子園球場から全国津々浦に流れた。日本人はどんな思いで聞いていたのだろうか。在日同胞はどんな思いだっただろうか。
京都国際高校は京都韓国学校が原点、もともとは在日同胞の2世たちは親と一緒に韓国の帰国にあたり、言葉ぐらいは使えるようにならないといけない。1世たちの深い愛情で創設、まさかそんなに長く学校経営が続くとは思っていなかっただろう。各種学校から始まり、日韓国交正常化で日韓の往来は可能になったものの2世たちの言語は日本語で文化も日本人気質になり、韓国の帰国はほとんどなかった。韓国に留学する人はいても生活基盤は日本だった。     在日韓国人の間でも京都韓国学校の支援者と支援しない人に分かれた。韓国語の勉強なら韓国の留学を進めた。しかしそこは在日韓国人2世、韓国政府からスパイの温存とみなされ、留学しても獄中に引っ張られていく人もいて留学した2世たち、大学を卒業しないままに日本に戻ってきた人も多くいた。
その現実に在日韓国人は日本で暮らすことの意味を正し、日本の学校に就学していく人が多くなった。少子化高齢者社会を目前にして生徒数は減少していく。なんとか1世が作った学校の維持をしなければならい。そんなときに周りの様々な意見に高校野球部の創部となった。高校野球連盟の加盟も厳しく京都日韓の関係者の尽力でなんとか高野連加盟ができた。
野球部を創部したものの少し野球をした程度でほとんどが野球に関わった人ではなかった。金健博監督は何かの縁で京都韓国高校の野球部の監督になった。
校歌で韓国語に初めて触れた。生徒たちと一緒になって韓国語の勉強をした。
甲子園の春の選抜大会で学校関係者2人に電話取材をした。短い時間だったがこれまでのことと今後のことを話して下さった。
当時の京都韓国学園から同校の李愚京理事長、2001年から理事長に就任、生徒数の減少で経営危機にあった2003年、念願の日本文部科学省・一条校の認定を受けた。この後、第2寄宿舎を建設しテニスコートも完成させた。
李愚京元理事長は京都国際高校の甲子園、春の選抜大会に出場、甲子園2回の対戦などについて話していた。
「私が民団京都本部団長の時に理事長を引き受けることになりました。
経緯はいろいろとありますが。京都国際学校にしてよかったです。一条校認定で反対派は『学校を日本に売った』と批判されました。京都国際学校を守っていくとして結果はよかったです。これから3世・4世で民族的なものはなくなっています。希薄になっています。生徒も日本人、教師も日本人ばかりです。校長も以前は在日韓国人でしたが、近年、韓国から校長が就任しました。今後、学校内容も変わっていくことになります。
校歌も東海(トンヘ)も東の海に翻訳されていました。一条校認可の時、校名変更にかなりの反対もありました。校歌も検討しましたが、とりあえずそのままに残しました。甲子園で日本全国に流れた校歌、賛否両論がありました。日本・韓国側といろいろとあります。教師の間でもいろいろとあります。教職員は日本人ばかりです。責任感を持って学校運営をしてもらいたいです。頑張ってほしいです」
李愚京元理事長の後任で、宋基泰さんは民団京都左京支部支団長をして子供会を創設してハングルや文化の取り組みを多くして後任も育成した。また個人的には日本体育大学で機械体操をしていた。国籍条項で日本での主だった試合は出られなかった。民団中央本部では役員を務めている。
宋基泰さんは電話取材に答えて下さった。
「京都国際学校の運動場は粘土のような土です。甲子園は黒土です。一般のグランド、甲子園の土に慣れるのには甲子園の土、黒土を入れないといけないのです。ようやく黒土を入れての練習もできるようになりました。黒土は水はけがよくバウンドもいいのです。運動場は普通、120メートル、京都国際高校は70メートルから80メートル、3塁のベースが作れないのです。そんなハンデイの多い運動場で練習をしてきました。狭いところで練習をするエネルギー、工夫をして細かい筋力をつけてきました。
たえず新しい情報を取り入れるようにしてきました。智恵と工夫、学校長は『やればできる。あきらめないこと』と、生徒たちに話しています。
劣悪な運動場で練習している選手たちにプロ野球からも注目されて、昨年のドラフトでは選手の1人はソフトバンクに行きました。
小牧憲継監督は寄宿舎で家族と住んでいます。結婚して4人のお子さん、4つ児です。めでたいことです。夜泣きもあるのに何も言わず選手の監督を懸命にしています。
野球部創部で1番最初に監督で就任したのは在日韓国人の金健博さん。日本の学校教育を受けてきた人です。京都韓国学校で始めてハングルに触れました。選手たちと一緒に韓国語の校歌を勉強して覚えました。選手たちによくはっぱをかけていました。
学校の今後は変わっていくことになります。時代の流れで韓国の国旗と日本の国旗も掲げていくことにもなるでしょう」
今年の春季大会が行われ、京都国際高校は京都代表で近畿高校野球大会に出場した。
5月29日、大津市の皇子山球場の近畿高校野球準決勝戦で、京都国際高校は智弁学園(奈良)に4対2で逆転負けをした。京都府では強豪校として京都国際高校は名が知られるようになってきた。野球部創部からこれまでの経緯、選手たちと監督、学校関係者の歩んだ歴史の足跡である。今後も劣悪な運動場でも工夫を凝らして頑張ってもらいたい。
私は現職時、何度も京都国際高校に訪問してきた。仕事を引退しても野球部の活動の報道に目も心も動いている。先日、部屋の片付けに出てきたのが京都韓国学校の部厚い記念誌がでてきた。息子たちに捨てられないようにそっとその記念誌はまた違う本棚に入れた。また時間があるときはゆっくり見ることにしよう。
写真は民団新聞から転載(2009年6月3日付)、李愚京理事長の離任と宋基泰新理事長の就任式の記事である。
この現場に私はいたのか、すっかり忘れている。