徒然の章《「稲むらの火」の広川町を訪ねて》中務敦行

いなむらの火祭り

「稲むらの火」という言葉を聞いた方は多いと思う。地震(1854年12月23日朝)がおきた時、広村(現和歌山県・広川村)の人たちは津波を心配して、広八幡神社に避難し、被害がなかったことを喜び合った。全国で2~3000人が犠牲になった。安政の大地震と言われる大災害だ。

ところが翌夕方、さらに大きな地震が起きた。瓦が吹き飛び、大砲のような大きな音が何度も聞こえた。そしてついに大きな津波が押し寄せてきた。濱口梧陵は広村(現在の広川村で生まれ育ったが本家の醤油醸造業を継ぐため千葉県銚子に居住)に帰っていたが、波にのまれそうになりながら、「逃げろ!」「丘に登れ!」「津波だ!」と必死に避難を呼びかけた。
津波は川をさかのぼり、田畑を押し流すとすごい勢いで海へ引いて行った。周りは逃げまどう人で右往左往し家族を探し回っている。暗やみでどこへ逃げればいいか分からないのだ。「もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」積み上げられた稲の束に火をつけた。その火を目指して逃げ遅れた人々が次々と丘に登ってきた。しばらくあとの大きな津波でこの火も消えてしまった。
津波で家族や家を失った村人はうろたえるばかりだった。濱口梧陵は「このままでは村が滅びると、「浜に堤防を築こう。賃金を払い、生活に役立ててもらおう」と私財を使って堤防を作りました。こうして4年がかりで完成させました。1946年の昭和南海地震の時も4mの津波に襲われましたが、多くの家屋がこの堤防によって守られました。

私は3歳の時、大阪市大正区の実家に疎開先の岡山から帰り、大正の生家に祖母と2人でいた。夜中に家が大きく揺れ、祖母は私を引きずるようにして二階へ上がりました。揺れる階段で励ます祖母の声が今だに耳の奥に残っている。
またこの近くの大阪ドームの対岸には安政の大地震の石碑が建てられ、近所の方が石碑がいつでも読めるように「毎年墨を入れよ」と書いてあるのを守り、今も墨痕鮮やかに立って、木津川、道頓堀川を見守っている。いつか和歌山にも行ってみよう、という希望がこの夏に叶った。