連載コラム・日本の島できごと事典 その37《オリンピック作戦》渡辺幸重

 第二次世界大戦の沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日午前8時過ぎ、慶良間(けらま)列島の阿嘉島を米軍が攻撃し、上陸することから始まりました。翌日までに列島全体を占領し、さらに沖縄本島での激しい陸地戦となり、6月23日に日本軍の組織的戦闘が終わって沖縄全域が連合国軍の支配下に置かれました。米軍は続いて、1945年11月1日に南九州(宮崎海岸、志布志湾、吹上浜)に上陸し、航空基地を確保する「オリンピック作戦」と1946年3月1日に関東地方(九十九里浜、相模湾)に上陸し、首都を制圧する「コロネット作戦」を用意していました。オリンピック作戦では沖縄戦と同じように周辺の島から攻めることにしており、種子島と甑島列島を艦砲射撃と空襲で攻撃して上陸する予定でした。
日本軍も米軍の攻撃を想定して40を超える特攻基地を建設し、九州南部に2,375か所の地下壕を建設したといいます。全国民を軍隊とする国民義勇隊も組織され、種子島では西之表(にしのおもて)町義勇隊に男子全員と15歳~25歳の女子が強制加盟させられました。私の故郷である屋久島でも母や親戚のおばさんが竹槍の稽古をさせられました。1945年3月18日には米第58機動部隊の艦載機、グラマン、カーチス戦闘機が奄美諸島、種子島、屋久島を含む九州全域を空襲し、ロケット弾・爆弾・機銃掃射などによる猛攻撃が行われました。沖縄に前進基地を確保してからは米軍は7月29日の枕崎から8月12日の宮崎まで短期間のうちに南九州の主要都市をことごとく焼き払いました。屋久島のなかでも栗生・原・安房・一湊・宮之浦という主要な集落が軒並み空襲を受け、集落の大半を焼失する被害を受けています。機銃掃射で死んだ人もいます。私の祖父母や母は米軍機が襲来するたびに山中の避難小屋に隠れたそうです。私はなぜこんな小さな島の小さな集落まで攻撃するのか不思議でしたが、オリンピック作戦の一環と考えると説明がつきます。種子島の横にある屋久島も上陸の対象になっていたのでしょう。
米軍の上陸部隊は57万人で、米軍の死傷者数はオリンピック作戦だけで13万人という想定があったといいます。ソ連が参戦し、広島・長崎に原子爆弾が投下されて日本は降伏しました。オリンピック作戦とコロネット作戦は合わせて「ダウンフォール」という暗号名で呼ばれました。「破滅」「滅亡」を意味します。大量破壊兵器や毒ガスによる無差別攻撃も予定されていたそうです。