宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 上》文・写真 井上脩身

蛤御門の変の3志士竹やぶに眠る 

蛤御門の変(禁門の変)が起きた京都御所の門

阪急の桂駅(京都市西京区)からバスで老ノ坂峠に向かう途中、古い町家が建ち並ぶ街を通った。後で調べると、樫原(かたぎはら)という旧山陰道の宿場であり、幕末の動乱の渦のなかで起きた蛤御門の変(禁門の変)のさい、ここで長州勢の3人が非業の死をとげたと知った。老ノ坂峠は平安時代の伝説「大江山の鬼退治」の舞台とされ、私はその現地をたずねようとしていたのだった。幕府にとって、長州は鬼だったであろう。時代が変わると、退治されるはずの鬼が鬼神にまつりあげられることはよくある。この3人はどうであったのだろうか。

長州の旗手と薩摩脱藩兄弟

相国寺内の「禁門変長州殉難者墓搭」(ウィキベテアより)
樫原宿本陣跡の玉村家の住宅

高校時代に日本史の授業で習った蛤御門の変を復習することから始めた。
尊王攘夷をかかげて京都の政局を押さえていた長州藩に対し、1863(文久3)年、公武合体派の会津藩と薩摩藩が結託して政変を敢行(八月十八日の政変)。長州藩兵は京都を追放され、長州は政治的主導権を失った。一部の長州藩士が京、大坂に潜伏して失地回復の機会をうかがうなか、翌年6月5日、三条木屋町の旅籠、池田屋で長州藩士が新選組に殺された(池田屋事件)との報が長州にもたらされた。藩論が、武力を背景に京に乗り込もうとの進発論に傾いた。久坂玄瑞らは山崎・天王山に、来島又兵衛は嵯峨・天龍寺に兵を集め、戦陣をしいた。
朝廷内部では長州勢駆逐を求める強硬派と宥和派が対立していた。孝明天皇が長州討伐を命じたことから、禁裏御守衛総督である徳川慶喜が強硬姿勢に転換。長州との衝突は避けられないものとなった。7月9日、蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が交戦、来島隊が中立売門を突破して御所内に侵入した。乾門を守る薩摩藩兵がかけつけると形勢は逆転、来島は自決した。真木和泉隊や久坂隊も遅れて御所南の堺町御門を攻めたが、越前藩兵の守りが堅く、久坂は鷹司邸で自害した。
長州勢は総崩れとなり、藩屋敷に火を放ってちりぢりに逃走。真木らは天王山にたてこもり、自爆した。
天王山は京都の西南である。西方に向かって逃げた長州勢のなかに楳本(うめもと)直政、相良(さがら)頼元、相良新八郎の3人がいた。
楳本直政は長州の百を超える義勇隊のひとつ集義隊の旗手。頼元と新八郎は兄弟で、ともに薩摩を脱藩。新八郎は脱藩後長州軍に属し、頼元は宇都宮藩に走った後長州軍に属した。三条大橋からはじまる山陰道。7キロ西に最初の宿場である樫原宿がある。越前・小浜藩の兵士が彼らを待ちかまえていた。3人はさらに西に逃げたが、数百メートル先の油商の小泉仁左衛門邸近くで小浜藩士に斬りたおされた。小泉仁左衛門は京都と長州との交易にたずさわり、尊王攘夷の資金を作る勤皇派の商人だったという。3人は小泉にかくまってもらおうとしたのかもしれない。
蛤御門の変の戦闘で戦死した長州兵は158人、負傷して後に亡くなった者94人、他藩出身で長州軍に加わり死んだ者や自害者などは46人。京都・相国寺に「禁門変長州殉難者墓搭」がたっている。
樫原で死んだ3人には、宿場郊外に「維新殉難志士碑」が建てられたという。私はぜひこの碑をたずねたいと思った。(明日に続く)