宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 下》文・写真 井上脩身

江戸の面影のこす本陣建物

明智川の異名がある山陰道沿いの川

7月末、35度を超える猛暑のなか、樫原を訪ねた。桂駅のすぐそばに大宮社という小さな神社がある。松尾七社の一社とされ、ここから西に向かって幅5メートルの道をすすむ。旧山陰道である。道沿いに小畠川という細い川が流れている。「明智川」という異名がある。あるいは亀山(現亀岡)から老ノ坂を越えた明智光秀が、この川のあたりで「敵は本能寺にあり」とゲキをとばしたのかもしれない。

旅人が一息ついたばったり床

ほどなく南北の道と交差する。ここはかつて「札の辻」と呼ばれていたようだ。南北の道は物集女(もずめ)街道といわれ、京都・嵐山から山崎を経て高槻に通じる片側2車線の幹線道路。物集女というのだから大原女のような女性が通る道かと思ったが、そうではなく、飛鳥時代に百舌鳥あたりから人々が移り住んだことがその名の由来だという。
交差点から山陰道を西に少しすすむと郷倉という土蔵がある。集めた年貢米を収納するための蔵だ。物集女という言葉とマッチしているのがおもしろい。近くにマンションが建っていて、屋根つきの板壁がめぐらされている。小泉邸跡といい、「勤皇家殉難の地」の石碑がたっている。蛤御門から逃げた3人は、ここで小浜藩兵に囲まれたのであろう。
さらに西にすすむ。古い町家が多くなる。間口が広く虫籠窓がある中2階構造なのが特徴だ。そうした一角に、やはり虫籠窓があり、べんがら壁の民家がある。樫原本陣であった玉村家住宅だ。本陣というので大きな邸宅と想像していたが、建面積が150~200平方メートル程度の、あまりめだたない平屋建ての旧家だ。中には入れない。案内板によると、母屋は三の間、二の間と大名が入る上段の間から成る。上段の間を約10センチ高くするなど、内部は本陣らしい構造だという。
樫原宿はこの本陣のほか11軒の旅籠があり、無量院という西山浄土宗の末寺が脇本陣をかねていた。今にとどめる建物はないが、ばったり床がある民家が一軒残っていた。ばったり床は、ふだんは壁にかけておくが、通行人が多い時は下げて椅子状にするものだ。老ノ坂を越えてきた旅人は、このばったり床に腰をかけて、ほっとひとごこち着いたであろう。
ここを通る参勤交代の大名は丹波、因幡、伯耆などの山陰方面の諸藩に限られるが、結構往来が多く、一人の女性がぼたもちを作って向かいの家に届けようとしたところ、大名行列で渡れず、もちが腐ってしまったという逸話が残っている。
この宿場を取り仕切るのは本陣職だ。元は広田家が務めていたが、安政年間(1854~1860)から玉村家がつとめた。蛤御門の変は玉村家が本陣をしきるようになって数年後の事件だ。京の都からみれば樫原界隈はタケノコが特産の静かな村里だ。幕末の風雲とはほとんど縁がなかったであろう。玉村家の当主は、驚天動地の事態に際し、宿場の人たちにどのような差配をしたのであろうか。それを伝える史料がないのが残念である。

おとなう人のない三つの墓標

3志士が眠る「維新殉難志士墓」
酒呑童子の首が埋められたという首塚大明神

すでに述べたように「維新殉難志士墓」をたずねるのが樫原宿の旅の大きな目的のひとつだ。下調べした範囲では、玉村家住宅から旧山陰道にそってさらに西約300メートルの竹やぶの中にあるという。実際に歩くと、簡単なことではなかった。この一帯は、どこを見渡しても竹やぶだ。道沿いには志士墓を示す標識はない。しかたなく、あちこちの竹やぶに入ってみるはめになった。
京都の夏は暑い。強烈な日差しである。シャツがぐっしょり汗にぬれ、額から汗がぽとぽとと滴り落ちる。探すこと40分。このままでは熱中症になるのではと不安になり、断念することにした。来た道を戻ってしばらくすると、脇道が目にはいった。念のため、その道をしばらく歩いてみる。道沿いの竹やぶのはしに一カ所、細道につながる空き地が目に入った。そこに「樫原札の辻三士殉難の地」の案内板がたっていた。
案内板のところから竹やぶの中の坂を30メートルほどあがると、ようやく「維新殉難志士墓」にたどりついた。高さ1・2メートルくらいの三つの石製の墓標がたっている。左から「長州 楳本遷之助」「薩州 相良新八郎」「薩州 相良頼元」と刻まれている。ほとんど訪れる人はないのであろう。手向けられる花ひとつなく、竹やぶの暗がりにひっそりと沈んでいる。案内板には、3人がこの地でたおれたいきさつが手短にかかれ、「遺体は放置されたが、村人たちによって丘の中腹に手厚く葬られ、墓標が建てられた」と記されている。あるいは玉村家当主の配慮によるものかもしれない。
楳本直政については、手元の資料には「仙之助、仙吉、戦乃助ともいう」とあるが、墓標にはどういうわけか仙之助が選ばれた。死亡事由については「禁門敗走後洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す」としている。薩摩脱藩の相良兄弟については「洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す」としたものの「禁門敗走後」の言葉はない。相良兄弟は蛤御門では戦わなかったのだろうか。楳本は京都の霊山にもまつられている。3人のなかで、楳本は長州藩士として高く葬られたのだ。
私は相良兄弟のことを思った。彼らは島津久光の公武合体論に不満をもち脱藩したのであろう。そして尊王攘夷に突き進む長州の藩論に突き動かされ、その戦闘に加わったのではないだろうか。もし、脱藩せず薩摩藩士として戊辰戦争に従軍していれば、まるで違った人生を歩んだであろう。維新後、薩長藩閥体制のなかで実力以上に出世した者は山ほどいた。相良兄弟もその一人になり得たはずである。
あるいは西南戦争で西郷隆盛につき従い、田丸坂か城山で果てたであろうか。
すでにふれたが、老ノ坂峠に向かう途中、この宿場跡の街並みを見かけたことが、3人の墓を訪ねるきっかけであった。酒呑童子という鬼を退治した源頼光は鬼の首を、峠近くで埋めたと言い伝えられ、そこにこんもりとした首塚が築かれた。今は「首塚大明神」という小さな神社が建ち、酒呑童子が鬼神としてまつられている。私は「維新殉難志士墓」と重ね合わせた。3人は幕府に弓ひく鬼として退治された。だが、幕府が倒れて新政府になり、楳本直政あがめられることになった。酒呑童子のような伝説の鬼神ではなく、れっきとした鬼神としてである。一方、1ランク低く扱われた相良兄弟であるが、樫原宿の人たちからは、長州であろうが薩摩脱藩であろうが分け隔てなく弔ってもらったのである。
ここまで書いて、念のため調べてみると、1900(明治33)年、陸軍省に告示により、相良兄弟は靖国神社に合祀されたという。このことをどう受けとめるべきかは、人それぞれであろう。私は3人を平等に弔った樫原の人たちの心根こそ貴重だと考える。樫原の里人は権力者にへつらわなかった、と思いたい。(完)