秋の夜長に聞く話《星空を眺めて》片山通夫

COP26が終わった。まあ、それぞれの国の立場や考えがグラスゴーの街で静かに衝突、つまり偽善的な終了を迎えたという印象を筆者は受けた。
11月20日のAFP通信は「トゥンベリさん、英首相を糾弾 COP26にプライベートジェットは「偽善的」という18歳の少女の意見を掲載した。
https://www.afpbb.com/articles/-/3376891

彼女はAFPに「もちろん気候危機はプライベートジェットによって引き起こされたものではないが、気候危機を解決しようとしながら、ボリス・ジョンソン氏のようにすぐ近くに住んでいる世界の首脳がプライベートジェットでグラスゴー入りしたことは、やや偽善的だ」と語った。「それでは正しいメッセージを発信することにならない」。英首相は「再びグラスゴーに向かう際には列車」を利用したという。

またグラスゴーでは「石炭火力発電の性急な廃止」を求める国の主張の裏には「原発推進」の意図が隠されていたように思える。いずれにしても各国の思惑が入り乱れ、「青い地球」を保つことはなかなか難しいようだ。

一度グラスゴーの星空を眺めながら各国首脳が歓談すればよかったのかもしれない。

秋の夜長に聞く話《ぬれ落ち葉》片山通夫

一昨日11月22日は全国的に雨だった。そして赤くまたは黄色く染まった木々の葉が早や濡れ落ちていた。ふと何年も前に流行った言葉「ぬれ落ち葉」を思い出した。そういえば意味は違うが「病葉(わくらば)」という言葉もあった。人生の末路を思い起こさせるこれらの言葉は雨に濡れた落ち葉。
こんなことが書かれていたサイトも見つけた。

⇒定年退職後の夫が、特に趣味もなく、暇をもて余して、何をするにも妻の後をくっついてくる様子を、払っても払っても、ひっついて離れない濡れた落ち葉の状態に例えて、「濡れ落ち葉」あるいは「濡れ落ち葉亭主」と呼ぶことがある。

コロナの昨今、お互い自粛生活をやむなしと毎日を過ごしている方々も多いと思う。また「病は気から」とも言う。おのおの方ご油断召されるな。

連載コラム・日本の島できごと事典 その48《地図から消された島》渡辺幸重

1938年発行の国土地理院地形図

広島県竹原市の瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)には900羽のウサギが棲んでおり、「ウサギの島」として有名です。外国の観光客にも人気で、新型コロナ禍前の2017年には約36万人が島を訪れました。その大久野島は第二次世界大戦までは日本の地図に載っておらず「地図から消された島」と呼ばれていました。なぜでしょうか。大日本帝国陸軍が秘密裏に毒ガスを製造していたからです。

大久野島には1929年(昭和4年)に毒ガス製造工場(東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所)が設けられ、イペリットガスなどの化学兵器を製造しました。第二次世界大戦終戦までの生産総量は約6,600トンといわれます。化学兵器の戦争利用は1925年(大正14年)のジュネーブ議定書で国際的に禁止されましたが、当時の日本は署名をしただけで批准はしませんでした。大久野島で作られた化学物質は兵器に詰めて毒ガス兵器となり、日中戦争で用いられたとされています。

大久野島の毒ガス製造施設は植樹によって木々に隠され、憲兵が厳しく監視しました。軍機保護法に基づいて島の周囲には「立入禁止」の立て看板が建てられ、撮影も禁じられました。そして、地図からも消されてしまったのです。毒ガス兵器が保管された阿波島(あばしま)など周囲の島も一緒に消されました。

終戦前後には日本軍や占領軍の手によって島の毒ガス弾などは廃棄され、製造施設は遺棄されました。化学物質は海に放流され、毒ガス弾などは土佐沖に海洋投棄されたり、島内で焼却や埋設などにより処理されたそうです。毒ガス製造施設は占領軍の指揮の下で焼却・解体され、大久野島周辺海域に海洋投棄されました。1951年(昭和26年)以降1972年(昭和47年)まで、島内や周辺海域で毒ガス弾などの発見や被災が続き、1961年(昭和36年)の調査では、防空壕内から2.5トントラック5~6台分の毒ガスが発見されました。

毒ガス製造には陸軍の技術者や軍属、徴用工・学徒勤労動員・勤労報国隊が従事しました。のべ人数で男女6,500人以上といわれ、ほぼ全員が毒ガスによる皮膚疾患や呼吸器疾患などに罹りました。戦後処理作業に従事した人を含め“毒ガス障害者”は少なくとも約6,800人とされます。1952年(昭和27年)から広島医科大学(現広島大学医学部)がボランティアで集団検診を行いましたが、国が民間人まで広げて被災者の社会保障を制度化(「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」)したのは1974年(昭和49年)のことでした。2015年度時点での対象者は2,073人で、平均年齢は88歳だそうです(北九州市、神奈川県の施設関連を含む)。

1988年(昭和63年)、大久野島に世界初の「毒ガス資料館」が建設されました。毒ガス製造の事実と犠牲者を出した現実を直視し、恒久平和を願うための施設です。ウサギと触れあう平和な光景の裏にある島の悲惨な歴史も知ってください。

お知らせ

おかげさまでLapizは40号を迎えます。LAPIZONLINE 2021冬号Vol.40は12月1日から順次掲載いたします。

秋の夜長に聞く話《読書の秋》片山通夫

物悲しい。これが秋の代表的なイメージ。勿論ご存じ「食欲」、「スポーツ」、「天高く…」などなど
積極的な秋もある。何しろ馬が肥えるのが秋なのだから…。

ここではもっと詩的な話をしたい。このシリーズのタイトルにもある「秋に夜長」を考えてみたい。
秋分の日を過ぎると昼がどんどん短くなってゆく。その現象は実に冬至に至るまで続く。
こんな時期を「秋の夜長」と昔の人は表現した。

さてその長くなってゆく夜の過ごし方だが、皆さんはどのように?

最近ではインターネットで色んな映画が配信されている。高速WIFIを自宅で繋ぐとあらゆる世界の映画報を見ることができる。無論大画面で見ることもできる。
しかし何となく大画面で見るのは落ち着かない。
そこそこのモニターで見たいものだ。

しかし本当は秋の夜長には読書が似合う。
秋の一日、ゆっくりと美術館などで過ごし、心地よくつかれた体を休めながら読書などすれば満点だ。

連載コラム・日本の島できごと事典 その47《椿の島》渡辺幸重

東京都立大島公園 椿園(大島ナビHPより)

島と島はいろいろな形でつながっています。伊豆諸島の大島(伊豆大島)と宮城県気仙沼市の大島(気仙沼大島)はいずれも“椿の島”と呼ばれていますが、椿が縁となって被災時に助け合い、深い交流が続いています。2011年3月の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のときには伊豆大島から気仙沼大島に椿油を作る搾油機が送られ、2013年10月に台風26号が伊豆大島を襲い、土砂災害が発生したときには気仙沼大島から椿の苗と義援金が届きました。
東日本大震災で気仙沼大島は甚大な被害を受けましたが、島に住む小野寺栄喜さんは椿油工場をすべて流されてしまいました。小野寺さんは伊豆大島の日原行隆さんから椿の苗を仕入れていました。被災後の大変なときに小野寺さんから苗の代金が振り込まれたのを知った日原さんは「約束はどんな状況でも守る」という小野寺さんの姿勢に感激して気仙沼大島を訪れ、「工場を再開したい」という小野寺さんに搾油機を送り、工場で生産再開の手伝いをしたといいます。
2年後、今度は伊豆大島で台風による土砂崩れが起き、36人の住民が犠牲になりました。椿農園も土砂に飲み込まれ、荒れ地になりました。気仙沼大島の小野寺さんは伊豆大島に入り、自分の椿の苗を日原さんに贈りました。両島とも生産者の高齢化や人手不足などの問題があり、困難はまだ続いていますが、二人ともお互いの励みが大きな力になったと言います。
伊豆大島の南西約20kmに浮かぶ利島(としま)も“椿の島”です。実は、利島は椿油生産量日本一で、全国の6割近いシェアを持っているのです。皆さんが観光の島・伊豆大島で買う椿油は利島産かもしれません。島を訪れるときには島々のつながりにも注目してみてください。伊豆大島の影に隠れがちな利島ですが、春先には島の80%を覆う椿が満開の花で島を飾り、「赤い島」になります。

 

秋の夜長に聞く話《秋は人を詩人にする》片山通夫

 

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秋はますます深まってゆく。

芭蕉の句に

「秋深き 隣は何をする人ぞ」

中学だったか高校だったか、所謂生意気盛りの筆者は思ったものだ。

「何をしようと勝手だろ・・・・」
さすがに最近はそんなことは思わない…。(当たり前か)
隣の人は何をして深まりゆく秋を楽しんでいるのかな
こんな意味だそうです。

〇秋深き かげともなひて 部屋にあり   高浜年尾(たかはまとしお)

〇秋深き 大和に雨を 聴く夜かな   日野草城(ひの そうじょう)

〇下駄の音 ころんと一つ 秋深し   富安風生

秋は人を詩人にする。

 

秋の夜長に聞く話《東大寺大仏殿》片山通夫

最後に
なぜこのような大寺院がいつ建てられたのか少し説明しておきたい。
時代は奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。建立の背景は724年聖武天皇が即位した頃、地震や疫病などの災いが起り、天皇は仏教に救いを求め、全国に国分寺や国分尼寺を建立、総本山の奈良・東大寺には大仏をつくった。
このような寺院建立が全国規模で行われたことは、かえって民に負担を強いて国力が衰えると思えるのだが、今の考えは8世紀には通じない。