びえんと《五七五に託すハンセン病患者の叫び 下》Lapiz 編集長 井上脩身

民族差別との二重苦も

短歌、俳句、川柳を収録した『訴歌』の表紙

北條民雄は18歳の時に結婚したが、ハンセン病にかかったために離婚することになった。妻だった女性もハンセン病にかかって死亡したことを入院後に知る。北條のように夫婦共に感染して共に入院しているケースも少なくない。

【夫婦】

妻の肩借りて義足の試歩うれし

書く時の夫が字引になってくれ

冬支度指図するほど妻は癒え

病む妻を笑顔にさせた子の為替

亡妻の忌へ冬の苺の赤すぎる

立春の吹雪に妻の骨拾ふ

(妻に先立たれた夫はただただ切なく悲しい)

【面会】

あなたはきっと橋を渡って来てくれる

(『訴歌』の表紙にあしらわれている句だ。患者の生への希望が句ににじみ出ている)

逢う日もうない母の声しかと聞く

【生きる】

痛み走る膚生きている生きている

(痛いのは生きている証しというのだ)

今生きて居るのが不思議魂(たま)迎

生きていてこそベッドにも春が来る

笑う日もあるから明日へと生きのびる

生き抜いた悦びを酌む花の下

盆の夜や生命(いのち)粗末に踊りたし

どの音も私の生きる道しるべ

(生きていることを実感して詠む句のなんと生き生きしていることか)

【絶望】

癒えて世に出るのぞみ断ち蟹と遊ぶ

(浜辺でカニとたわむれることだけがなぐさめなのか)

深い傷埋めつくすまで雪よ降れ

生きてゐることの切ない月の夜

【死】

人知れず落葉と共に遺品焼く

(誰に知られることなく遺品が焼かれる)

堤防に並ぶ柩や今日の月

風花や野積の死者の紅布団

流れ星今宵も友をひとり消し

(星が流れるたび、友が亡くなるのだろうか)

人の死者やがてわがこと隙間風

除夜の鐘死線を超えて耳底に

(除夜の鐘が死の向こうから聞こえくるのであろう)

縁者なき野辺の送りや時雨降る

(寂しい野辺の送り。時雨がわびしさをいやます)

【帰郷】

遺骨さえ帰郷拒まれ鳥曇

(なんという郷里であろうか。古里は差別の村だったか)

訪ひがたき生家を車窓秋の暮

(生家を訪ねることが許されず、ただ車窓から眺めただけ。そのつらさ、どう表現すべきだろう)

里帰り過ぎた生家を振り返り

【仮の名】

仮の名で通す一生石蕗(つわ)の花

仮の名におのれなじみて露涼し

(差別社会の中で本名が名のれなかったのか)

【怒り】

物言わぬ妻抵抗を背に見せ

(背中が怒りに震えているのであろう。不条理な差別への怒りを、夫は妻に代わってどう表すのだろう)

座り込む国会の上の天の川

(らい予防法廃止を求めて国会前で座り込んで詠んだのであろうか。天の川のごとく差別なき世への橋にならんことを願って)

癒えてなお許してくれぬ予防法

(らい予防法への怒りをぶつける句だ)

いずれも涙なしに鑑賞できない句である。が、何よりショックなのは次の句であった。

韓国の君を葬る日本名

韓国人のハンセン病患者は民族差別とハンセン病差別の二重差別を受けたまま、葬られたのである。

絶望の淵から勝訴へ

ハンセン病家族訴訟の勝訴を喜ぶ支援者ら

ハンセン病について我が国は1907年、患者撲滅の対象としてらい予防法を制定、この法によって患者を強制隔離してきた。しかし、当初から感染力が弱いことはわかっており、1931年の帝国議会でも政府委員は「伝染力からいえば弱い菌で、らい菌に接触したからといって、多くの場合必ずしも発病しない」と答弁。しかし政府は隔離政策を継続、本人だけでなくその家族まで、穢きものとして村八分同然の扱いを受けて来た。新規感染者が日本人では6人にとどまった1996年にようやくらい予防法は廃止されたが、この間、患者やその家族は差別され続けてきた。

このらい予防法が憲法に反するとして1998年から裁判で争われ、2001年、熊本地裁は「隔離政策によって偏見差別を受ける社会構造を形成したもので、憲法が保障する人格権の侵害に当たる」として、国に謝罪と損害賠償を求める判決を下した。さらに、その家族たちが「差別によって被害を受けた」として「ハンセン病家族訴訟」を2016年に提起。2019年、熊本地裁は原告ら557人に総額3億7675万円の損害賠償を支払うよう命じる判決を下した。国が控訴を断念、判決は確定した。

この判決後、日弁連は会長名で「ハンセン病病歴者とその家族らは、家族関係を破壊され、深刻な差別偏見により人生そのものに重大な被害を受け、人格と尊厳が冒されてきた」としたうえで「(日弁連も)ハンセン病病歴者の家族らの差別問題に正面から取り組んで来なかったことに対する責任を自覚し、ハンセン病問題の全面解決に向けて、一層の努力をする」との声明を出した。

ハンセン病の日本人新規感染者が2005年に初めてゼロになり、ほぼ撲滅。現在15の療養所で4500人の病気回復者が生活をしている。

だが、過去の差別の歴史は決してかき消されてはならない。本稿で取り上げた『訴歌』の川柳はその証言なのである。北條民雄は悲しみの淵の底で小説をかいた。今いきていたらどのような作品を書いたであろうか。そのヒントになる句が『訴歌』にある。

血まみれてまだそびえ立つ自尊心

絶望の淵に立って苦しみながらも自尊心は決して失わないという強い決意の句である。この意志の強さが、ずっと後の裁判で勝訴をかちとることになったと言えるだろう。

差別の元凶の予防法

映画「一人になる」は冒頭に述べたように、ハンセン病の隔離政策に一貫して反対し続けた小笠原医師の反骨人生を描いたものだ。京大病院勤務中、ハンセン病にかかった患者の診断書に別の病名を書いた。ハンセン病と書けば、患者は強制的に隔離されるからだ。小笠原は正しい治療を行えば治る病気と考えていたようだ。

こうした医師としての小笠原の行為にもまして私が感銘を受けたのは戦後、憲法が制定されてすぐ後の以下のエピソードだ。

あるとき、両親が子どもを連れて診察室を訪ねてきた。ハンセン病にかかっているが療養所に入る必要はない、と両親に告げたが納得せず、結局、子どもを療養所に入れた。その数日後、両親はまた診察室にやってきた。村の人たちが、「村中に伝染する」とパニックになり、子どもがいた離れの部屋に火をつけ、母屋まで燃えた。さらに両親に対し役所まで白い目を向けるようになったというのだ。小笠原は看護師に「3日間留守にする」と言い残して、両親らの村におもむき、村人や役所に「ハンセン病の伝染力は結核よりはるかに弱い」と説得してまわった。村人や役所も最後はわかってくれたという。

この映画が訴えたかったのは、らい予防法によって、ハンセン病がコレラやチブスのように恐ろしい病気であるという誤った意識を国民に植え付けたことだ。法律がハンセン病患者に対する偏見・差別の元凶だったというのである。憲法は「法の下の平等」(第14条)を保障。らい予防法も戦後、改正されたが、強制隔離政策はむしろ強化された。

すでに触れたが、ライ予防法は制定から約90年後に廃止された。それで問題が解決したといえるのだろうか。

法廃止ああ変わらない差別の目

2001年にハンセン病歴者が詠んだ句である。20年がたった今、この悲痛な叫びに社会はどこまで応えてきたのだろう。新型コロナウイルス感染者がでた学校や施設に対するネット上の差別的書き込みが後を絶たない現実をみると、暗澹たる思いである。 (完)