編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 上》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

~義仲寺で俳聖の心をさぐる~

義仲寺

新型コロナウイルスの新規感染者が減少し、緊急事態宣言が解除された10月初旬、大津市のJR膳所駅に近い義仲寺をたずねた。木曽義仲をまつるこの寺に松尾芭蕉も葬られ、墓が隣り合っていると聞いたからである。芭蕉は「おくの細道」の旅で、源義経の終焉の地とされる奥州・平泉の衣川をたずね、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句を詠んでいる。素人めには、義経に思い入れが強かったとみえる芭蕉がなぜ、義仲のそばで死後を送ろうとしたのだろう。来年は『おくの細道』が刊行(元禄15=1702)されて330年になる。俳聖の心の奥をうかがってみたくなったのである。

巴御前ゆかりの無名庵

義仲は、八幡太郎の名で知られる源義家の孫・義賢の次男。武蔵で生まれ幼名は駒王丸。義賢が甥の義平(悪源太=頼朝・義経の兄)に殺害されたことから信州に逃れた後、木曽で成長。治承4(1180)年、以仁王が平家打倒の令旨を発したのを受けて挙兵し、北信での戦いに勝利。北陸へ逃げてきた以仁王の遺児、北陸宮を天皇にしようとの意図をこめて、越後から北陸に進出。平維盛を総大将とする平家軍を越中・倶利伽羅峠で破って入京。治安は落ち着かず、後白河法皇に責められて平家打倒のため西国に出陣し、水島の戦いで惨敗。相前後して頼朝から「平家横領の神社仏寺領の返還」など、源家の棟梁としての申し状が朝廷に届き、法皇は頼朝に東海・東山道諸国の支配権を与える。

頼朝の命を受けた源範頼・義経の鎌倉軍が義仲打倒のために京に向けて出陣。義仲は防備を固めようとするが、義仲につき従う兵は少なく、寿永3(1184)年1月、宇治川の戦いで敗北。今井兼平ら数名の側近武将と落ち延びるが、1月20日、近江・粟津で討ち死にした。

巴御前

義仲寺の案内パンフレットには「(義仲公は)この地で討ち死にされた。享年31歳」とあり、同寺あたりが義仲終焉の地とみられている。このパンフレットによると、義仲の死後数年がたって、美しい尼僧が義仲の墓のそばに草庵をむすび、供養した。この尼はいうまでもなく義仲の側室・巴御前。尼の没後、庵は「無名庵」といわれ、「巴寺」「木曽塚」「木曽寺」などとも呼ばれた。その後、寺は荒廃したが、戦国時代になって近江の領主・佐々木氏が石山寺参詣の折に立ち寄り、「源家大将軍の墳墓が荒れるに任されているとは」と寺を再建、「義仲寺」になった。

芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのは元禄2(1689)年3月27日。日光、白河の関、松島と北に進んで平泉から西に向かい、尾花沢、出羽三山から鶴岡で日本海沿いに。さらに象潟まで北行した後、Uターンして越後、越前を経て敦賀から大垣まで全行程600里(2400キロメートル)を踏破した。大垣から伊勢神宮に向かった後、出生地の伊賀上野を経て京へ。同年末、無名庵で過ごす。元禄3年、いったん伊賀上野に戻ったあと、近江・国分の幻住庵に滞在し、京や膳所で俳諧の席に出席。翌年、嵯峨野の門弟、向井去来の別荘・落柿舎に滞在、9月、江戸に向かった。元禄5年、新築された芭蕉庵に移り住み、翌6年、体調を崩す。

元禄7年5月、伊賀上野に向かったあと、奈良から暗峠を経て大坂へ。体調が悪く、門弟の之道の家に逗留、容体が悪化し南御堂の門前の花屋仁左衛門の貸し座敷に移り、10月8日「病中吟」と称して辞世の句を詠んだ。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

10日、遺書をしたため、12日午後4時ごろ息を引きとった。13日、遺骸は義仲寺に運ばれ、遺言に沿って義仲の墓の隣に葬られた。

以上が義仲の人生と、「おくのほそ道」以降の芭蕉の晩年のあらましである。芭蕉の晩年は近江や京に滞在することが多かったことは明らかである。義仲寺のパンフレットに「芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎とした」と書かれてあり、芭蕉が俳諧の席に臨んだ膳所とは義仲寺であることはまぎれもない。

新しい国造り目指して挙兵

「芭蕉はなぜ義仲のそばに葬れと遺言したのか」と疑問に思った一人に歴史小説家、松本利昭氏がいる。松本氏はとくに義仲への造詣が深く、『巴御前』『木曽義仲』を著している。義仲は京の都で作法も知らない木曽の田舎者とさげすまれた一方、兵士たちは略奪しほうだいの無法集団と怖がられた。義仲は京の公卿たちから悪評たらたらだが、松本氏は「調べてみると冤罪であることが明白」とし、前記作品の中でも強く「悪行狼藉は義仲のやったことではない」と主張。義仲の雪冤を図るため、1991年、義仲の墓前で「義仲復権の会」を立ち上げたが、そのさい、すぐ右に芭蕉の墓があるのを不思議に思ったという。そこで、松本氏は、義仲の木曽から京までのコースと、芭蕉の紀行コースが共通するルートを実際に歩けば、そのヒントが浮かび上がるのではないかと考え、1993年、『芭蕉「越のほそ道」』(毎日新聞社)を上梓した。

木曽義仲・松本利昭著

大坂で亡くなった芭蕉の棺を義仲寺まで担いだ花屋の手代と丁稚が、10年後、商家の主・定右衛門と、花屋の番頭・正助となり、二人で「越のほそ道」の旅に出るという設定だ。

本項では『芭蕉「越のほそ道」』にそって、松本氏の考察にふれたい。

まず義仲が目指したものは何か、である。信州のお寺の和尚が「木曽義仲公、冤罪解明之書」を見せてくれる。そこには「天皇家を崇め、北陸宮を帝位につけ、院政による一人独裁の弊害を除き、新しい国造りを目指した」と記されている。義仲挙兵の目的は後白河法皇独裁政治をやめさせること、というのだ。これを補う形で和尚は「強大な平家の主戦力を壊滅させ、新しい国造りへの幕開けを成したのは頼朝でなく義仲公。しかし頼朝は法皇に密書を送り、義仲は鎌倉の代官に過ぎないと偽り、自ら平家追討を一度も行わず、その勲功の一位を頼朝であると卑怯にも横取りした」と頼朝を非難した。

同文書では、平家との戦いについて、義仲は「自ら進んで平家に戦を仕掛けたことはなく、大勝利をおさめても追い討ちをして息の根を止めようとしなかった。都入りの際も、平家が西国に都落ちするのを待った」と、きわめて穏便な手法をとったことを強調。「都や畿内を守備していた義仲公の軍勢が都人への乱暴狼藉を働いたとの口実により、密かに法皇が頼朝の義仲追討を命じたのは、一人独裁の権力に固執して、二牙を戦わせるという謀略にほかならない」と訴えている。乱暴狼藉は義仲の兵によるものでないことを知りながら、後白河法皇がでっち上げたというのだ。

少し意外だが、芥川龍之介も義仲に関心をもち、『木曾義仲論』(青空文庫)を著している。義仲の挙兵は「革命の旗を翻して檄を天下に伝えん」ためと芥川はいう。京の都に入ると義仲は「旭将軍と称」したが、「寿永の革命はかくして彼が凱歌の下の其局を結びたり」と、重ねてその挙兵は革命のためであるとしている。芥川のいう革命は、「新しい国造り」と同意であろう。しかし乱暴狼藉については、「彼等の野生を以て、典例と儀格とを重ンずる京洛の人心をして聳動せしめ」たあげく「至る所に演じたる滑稽と無作法によって、京洛の反感と冷笑とを購ひ得たり」としたためた。司馬遼太郎も「木曽兵の狼藉のすさまじさ、史上空前というべきだろう」(『義経』文春文庫)という。芥川も司馬も乱暴狼藉の事実ありとみている。松本氏が主張する「義仲冤罪説」は少数派のようである。

北陸での合戦を俳句に詠む

兵の乱暴狼藉があったのは間違いなさそうである。だが、「新しい国造りのため」に挙兵した義仲にその意志があったかどうかは定かでない。そもそも乱暴狼藉が冤罪であるとしても、そのことと芭蕉とは関係があるのだろうか。さらに『芭蕉「越のほそ道」』の中身を検討していきたい。

「おくのほそ道」のルートはすでに述べたように、江戸―平泉―鶴岡・象潟―敦賀―大垣である。平泉から敦賀までは、頼朝に追われた義経が京から平泉へと逃亡するコースを、芭蕉は逆に歩いた。ならば、芭蕉は義経をしのぶ旅をしたのであろうか。

松本氏は冒頭にあげた「夏草や――」の句に、義経への思いがうかがわれないとしたうえで、『猿蓑』に「ゑぞ千しまをみやらぬまでと、しけりにおもひ立侍るを、同行曽良何がしといふもの、多病いぶかしなどなど袖をひかゆるに心たゆみて、きさがたといふ處より越路におもむく」とあることから、芭蕉は本当は蝦夷から千島まで行きたがっていたと推察する。おそらく芭蕉は義経が蝦夷(北海道)にわたったという義経北帰行伝説を耳にし、たずねてみたいと考えていただろうというのだ。しかし曽良の具合が悪くなったので蝦夷行きは断念した。となると、以降の旅は目的が変わることになる。

芭蕉が親知らずの難所を越え、越中・那古の浦に着いたのは7月14日。翌日は金沢に泊まる。この間、越中と加賀の境の俱利伽羅峠を通ったはずだ。この峠を歩けば、義仲が名をとどろかせた倶利伽羅峠での火牛の計を耳にしないはずはない。

むざんやな・・・

越後から西に進む義仲軍に対し、平家の10万の大軍は越前火打ち(燧)城の戦いで勝利、加賀・安宅の関でも義仲軍を破り、倶利伽羅峠に布陣。治承5(1181)年5月11日夜、義仲軍は5手に分かれて太鼓を打ち、法螺を吹き鳴らして奇襲、同時に角にたいまつをつけた400~500頭の牛を平家軍に襲い掛からせた。平家軍は逃げ惑い、1万8000騎は次々に深い谷に落ち込み、阿鼻叫喚の地獄と化した。平家軍は決定的な敗北をきし、京に逃げ帰った。

芭蕉はこの俱利伽羅峠の戦いについては何ら句につくらず、7月26日、片山津に到着。ここで、

むざんやな甲の下のきりぎりす

の句を詠んだ。

北陸での戦いで敗れた平家軍の老武将、斉藤実盛が若く見せるために白髪を黒く染め、義仲軍の若い武将と一騎打ちして討たれた。義仲軍が老武将の首を洗ったところ、白髪の実盛であることがわかったとの伝承をもとに詠んだ句だ。実盛は駒王丸の名だった幼少の義仲を信州まで送っており、義仲には恩義ある敵将だ。「夏草や――」の句に相似たもの悲しいひびきがある。

越前・燧山まできた芭蕉は、山の上に月がかかっているのを見て

義仲の寝覚めの山か月悲し

と詠んだ。義仲の生涯を思うと月も悲しげだ、というのが句意という。

「寝覚め」といえば木曽の名所、寝覚の床を思はせる。芭蕉には、

木曽の情雪や生ぬく春の草

の句がある。春の草は雪の下の堅い土から生え出ることから、義仲のことを指すと松本氏。木曽という山も谷も深いなかで成長した義仲への思いが強かったのであろうという。

松本氏は芭蕉の句の神髄は「造化」にあるとみる。ただ景色を詠むのでなく、ものの本質に迫り、かたちをなすというのだ。それは、義仲が求めた国造りの心と相通じると、「おくのほそ道」の旅のなかで芭蕉は感じ取っていたというのである。(明日に続く)