編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 下》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

木曽殿と背中合わせ

芭蕉の墓・義仲寺

『芭蕉「越のほそ道」』は上下2段290ページにわたる大著である。松本氏の調査力には頭が下がるが、俳諧の神髄が義仲の国造りの理想とは相通じることから、芭蕉は義仲に強い思いを抱いた、というのはムリがあるように私はおもう。国造りならば、その形をつくりあげたのは頼朝だ。だが頼朝に心を寄せた気配は全くない。要するに芭蕉は義仲が好きだったのだ。でなければ「義仲寺に葬ってくれ」と遺言するはずはない。ではなぜ義仲が好きだったのか。

私が義仲寺を訪ねようと思ったのは、冒頭に述べたように芭蕉の心中を探りたいと思ったからだが、言い換えれば、義仲好きはなぜかという疑問の一かけらでも解けないかとの好奇心であった。義仲寺は膳所駅から徒歩5~6分の住宅密集地にあり、国の史跡に指定されている。旧東海道に面した山門から入ると、境内は長さ20メートル、幅10メートルと狭く、本堂とよべるような大屋根のある建物もない。ここに俳聖・芭蕉が眠っているとは思えないささやかなたたずまいである。

境内に入ると右手に寺事務所、左手に少し大きい平屋の建物。「無名庵」と名づけられ、いろいろな集会に使われている。この「無妙庵」の前に義仲の墓。高さ1・5メートルくらいの法輪がついた四角い墓だ。義仲の墓から2メートルほど南が芭蕉の墓である。高さ70センチのとんがり帽子形の岩に「芭蕉翁」と彫られているだけだ。その周囲を石柵がめぐらされているが、それもどちらかといえば簡素なつくりだ。手向けられたキクの花が寂し気である。

巴塚

義仲の墓の脇に高さ50センチの石がたっている。「巴塚」という。巴御前は絶世の美人といわれるが、義仲の戦いには鎧をきて終始同行、そばに寄り添い、なぎなたで辺りの敵兵をはらうなど、男武者顔負けの武勇を発揮したと伝えられる。

境内には芭蕉門弟らの約20の句碑がたっている。その一つが「木曽殿と背中合わせ寒かな」という島崎又玄(ゆうげん)の句碑。又玄は伊勢の門人だ。「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は伊勢神宮の遷宮見物のために伊勢に滞在したさい、又玄の家を訪れている。芭蕉は又玄のもてなしがうれしかったのであろう。又玄も芭蕉への尊敬の念が深く、元禄4(1691)年9月13日、無名庵に滞在していた芭蕉をたずねたさい、この「木曽殿――」の句を詠んだ。又玄が芭蕉から「木曽殿の墓と背中合わせになるように墓をたてたほしい」という願いを聞いて句作したに相違ない。

問丸と北前船問屋

伊勢で又玄をたずねた芭蕉が義仲への思いを語ったと私は推測するが、そうであるならば「おくのほそ道」の旅で、義仲に親密感いだく何かがあったにちがいない。そのナゾを解くカギが松本氏の著書『木曽義仲』(光文社)のなかにあった。同書には、義仲が越後に進出したさい、直江津で花蔵という問丸と知りあったとある。新潟県柏崎市の編年史に「義仲国府ニ在陣シ、柏崎ノ渡リ越ノ丸船長花蔵ニ軍用ノ事ヲ任セケル」とあり、史実と考えられる。

花蔵は越後の船問屋で、問丸船を使って産物を運送していた。花蔵は、直江津にやってきた義仲の声望を聞き、義仲と北陸の豪族を結びつけることで北陸全土の産物を一手に動かすことができ、莫大な利益を得ると考えた。松本氏は「花蔵が北陸各地の豪族たちと密かに逢って、日の出の勢いの義仲と結束させた結果、北陸の軍勢を加えて一挙に五万の大軍となった義仲軍の台所を預かる」(前掲書)こととなり、それが北陸での戦いで義仲に大きな戦果をもたらすことになった。

私はかねて「おくのほそ道」は河村瑞賢の東回り、西回り航路探索ルートをたずねる旅ではなかったか、と考えている。

河村瑞賢は幕府の命令で阿武隈川上流の幕府米を江戸に運搬するコースの開拓を行い、寛文11(1671)年、東回り航路を見いだした。さらにその翌年、最上川上流の米を酒田で積み替え、日本海沿岸から瀬戸内海を経て江戸に運ぶ西回り航路を見つけだした。とくに西回り航路について、最上川上流――酒田――敦賀間については、芭蕉が瑞賢の踏み跡を追いたずねたのではと思えるほどに、ほぼ同一コースをたどっている。

琵琶湖

私がこのように思ったのは、芭蕉が酒田で俳諧の会を開いたさい、瑞賢に協力した廻船問屋たちが門人として参加していたことを知ったからである。瑞賢の江戸・霊雁島の家には新井白石がちょくちょく顔を出していたといわれ、晩年には近くに庵を結んだ芭蕉とも交友関係にあったという(伊東潤『江戸を造った男』朝日新聞出版)。

芭蕉は直江津の今町で2泊、高田城下で3泊し俳諧を開いている。直江津は北前船の寄港地として発展した町で、米、大豆などが積みだされていた。芭蕉のころ、廻船問屋が豪商として町の経済文化を担っていたと思われる。酒田で見られたように、廻船問屋のなかから俳諧に興味を持つ者がいたと考えるべきであろう。そうであれば、昔語りのなかで花蔵のことが出た可能性もあろう。北前船の元ともいえる問丸船と義仲。北前船と芭蕉。直江津で芭蕉が、義仲とは見えざる糸でつながっていると感じたのではないだろうか。

義仲寺から6、7分歩くと琵琶湖畔にでた。比良の山並みが湖畔にアクセントをつけていた。はるかかなたに伊吹山がかすんでいる。すぐ目の前に何本もの旗が二列にならんでいた。まるでここが臨時の波止場であるかのように。

気が付いた。ここは東海道を大津宿から草津宿に向かう旅人のために渡し船が出ていたのだ。芭蕉はこの地を訪ねるとき、船を使っていたに相違ない。なぜなら、「おくのほそ道」の旅では、深川から最初の千住宿まで船にのり、終着の大垣から伊勢に向かうときも船を使っている。「おくのほそ道」の旅の始めと最後は船旅なのだ。芭蕉はここで義仲に思いをはせたのであろう。義仲にとってここに墓がつくられたのは偶然であっても、芭蕉にとってはここでなければならなかったのである。

(完)