原発を考える《犠牲強要の汚染処理水海洋放出》文 井上脩身

福島第1原発の敷地いっぱいに並ぶ汚染処理水貯蔵タンク(ウィキベテアより)

岸田文雄首相は衆院選で与党が過半数の議席を獲得したのを受け、安倍政権が行ってきた原発政策を進める方針を明らかにした。当然、前政権時代の課題も岸田政権の肩にのしかかるが、そのひとつは福島第1原発の汚染処理水問題だ。菅政権下の2021年4月、2年後をメドに海洋放出することに決定しており、岸田首相は自らの政権下で放出を実施するものとみられる。しかし、放出される放射性物質トリチウムの危険性を指摘する声は根強くあり、地元漁業者は風評被害を懸念、あくまで反対のかまえだ。そもそも原発事故が起きたから処理水問題が出現しでたのである。事故で地元漁業者に塗炭の苦しみを押し付け、さらに処理水放出で少なくとも風評被害を及ぼすというであれば、理不尽な犠牲強要施策というほかない。

東京の不安を考慮

風評被害が懸念される南相馬市の真野川漁港(ウィキベテアより)

事故を起こした原子炉の建屋内に残る溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)は熱をもっているため、終始水で冷やさねばならない。さらに地下水や雨水も建屋に入り込む。これらの水は核燃料に触れて64種の放射性物質を含む高濃度の汚染水になる。この汚染水を「ALPS」(多核種除去設備)のフィルターを通して放射性物質をこしたあと、敷地内のタンクにためている。事故後10年以上が経過した現在、汚染処理水が東京ドーム1個分に匹敵する125万立法メートルにおよび、貯蔵タンクが1000基に達した。

タンクの敷地が満杯に近づいていることから、処理水を敷地外に出すことが喫緊の課題となったわけだが、汚染水を処理するALPSの能力に限界があることが、この問題を複雑にしている。ALPSは放射性物質中トリチウムを除去できないうえ、他の放射性物質の濃度も想定通り下げられず、80万立法メートル余りが国の放出基準を超える濃度になっている。こうした課題を克服できる見通しがないなか、2013年9月7日、安倍晋三首相(当時)は国際オリンピック委員会総会で「(汚染水の)状況はコントロールされている」と詐欺まがいの発言をしてオリンピック招致に成功。しかし、地元の汚染処理政策に対する不信は強く、政府と東電は漁業者らに「関係者の理解なしには、いかなる処分もしない」と約束した。

その一方で経済産業省は2016年6月、「汚染処理水の海洋放出が最安で最短」と評価する報告書を公表。経産省の小委員会では処理水を蒸発させて大気に放つ「大気放出案」も検討されていたが、「放射性物質を含む気体が東京まで飛んで来たらどうしようという不安を考慮すると、大気放出はできるわけがない」として、海洋放出に絞られた。

以上の経過からわかるように、国は処理水問題に頬かむりして平然と五輪招致をする一方で、その影響を東京に及ぼさないことを前提に策を練ってきたのだ。

政府は「放射性物質による健康被害は起きない」として、風評被害に対する補償一本に絞って地元説得に乗り出した。2021年4月7日、全漁連は政府に風評被害の対応、漁業者が漁業を続けるための方策の提示――などを要望しており、漁業関係者が「風評被害対策がとられるなら、海洋放出もやむをえない」と、政府に懐柔される形となった。

政府は4月13日、汚染処理水の海洋放出を決定。ALPSでは取り除けないトリチウムを国の放出基準の40分の1(1リットル当たり1500ベクレル)を下回るよう、海水で100~170倍に薄めて放水。風評被害対策としては、①福島県内15市町村の水産関係の仲買、加工業者らを支援し販路を拡大②県内の観光客の誘致や移住の促進、同県産の農産物の販売促進③風評被害が生じた場合、被害の実態に合う賠償――などとした。

放出は2023年ごろから実施、流し終えるまで30~40年かかる見込みという。

御用学者の「やたら怖がるな論」

政府の海洋放出に至るプロセスを検討、分析すると浮かび上がるのは、「放射能をやたら怖がる素人ども」という政府寄り研究者の姿勢である。福島第1原発事故の政府の事故調査・検証委員会の委員を務めた柿沼志津子・量子科学技術研究開発機構・放射線影響研究部長の発言がそれをよく表している。(2021年5月14日付毎日新聞)

柿沼氏は「処理水の海洋放出に関する風評を防ぐために一番大事なことは、放射線やトリチウムについて基本的なことを正しく理解してもらうこと。放射線が身近なものであり、放出される処理水の濃度が安全なレベルであることも知ってもらう必要がある」と前置きしたうえで、概要以下のように語った。

トリチウムは自然界ではそのほとんどがトリチウム水として存在する。トリチウムのベーター線は、放射性のリンや炭素が出すベーター線に比べてエネルギーが非常に小さい。人の肌を通過することができないほどのエネルギーのため、トリチウム水が体外にあれば、被ばくの心配はほとんどない。

考えなければならないのは、トリチウム水が食べ物や飲み物に含まれ、体内に取り込まれてしまったときの影響。体の中に入ったトリチウムの95%は、尿や便を通じて排出される。残りの5%は、体内の核酸やたんぱく質などと結合して「有機結合型トリチウム」になる。排出に時間がかかり、生物学的半減期は40日~1年と長い。このため「遺伝子に影響はないのか」との心配の声も多い。

この場合、問題となるのは濃度。過去のマウスを使った実験では、1リットル当たり1億4000万ベクレルという濃度のトリチウム水を毎日飲ませ続けても、平均寿命や発がんに影響は見られなかった。福島では処理水1リットルに含まれるトリチウムが、国の放出基準の6万ベクレルよりはるかに低い1500ベクレル未満になるよう大量の海水で薄められてから放出されるので、仮に体内に取り込まれても、影響は考えにくい。

食物連鎖で魚などに放射性物質が濃縮されるのを心配する声もある。トリチウムは体外に排出されるスピードも速いので、その可能性は低い。

以上見た通り、柿沼氏は「海洋放出してもほとんど心配いらない」と述べ、政府決定にお墨付き与える。したがって、残る問題は無用の心配をする風評だけ、となるわけだ。

ガン発生リスクあるトリチウム

柿沼氏がいうようにトリチウムは何の心配もないのだろうか。民間の調査団体である「原子力資料情報室」が「トリチウムの危険性」と題するデータ集をネットで公開している。それによると、トリチウムは①ベーター線しか放出せず測定が困難②エネルギーの最大値は小さくなく、局所的に被ばくを与える③体内での被ばくが観測されている④有機結合体であることの影響は大きい――といった問題があり、「生体濃縮が起こり得るので、遺伝子と結合してがん発生のリスクがある」としている。

具体的な例証としてイギリスでの研究レポートをあげる。海産魚に含まれる有機結合型トリチウムを測定したところ、セントビーズ地区ではトリチウムの生体濃縮が起きていることが判明。魚介類に含まれるトリチウムの90%以上が有機物と関連していることを示していることから、この形態のトリチウムは有機物や堆積物と強く結合、海洋生物の食物連鎖を通じて、小さな生物から魚に蓄積する可能性がうかがえるとしている。

ドイツ政府の報告では、原子力施設周辺の子どもたちの白血病が有意に増加していることが疫学的に示されている。その原因がトリチウム放出にあるのではと研究者は指摘。トリチウムの放出が多いカナダ型原発の下流域では、白血病や小児白血病、ダウン症、新生児死亡などの増加が報告されている。

以上のデータなどから「原子力資料情報室」は①トリチウムが均質に薄まることはない②海で一部が有機トリチウムとなり、食物連鎖を通して濃縮される③タンク内にはほかに沈殿物もあり、バクテリアもいる――とし「海洋放出は安全でない」と結論づけた。

素人には、海洋放出が安全なのか安全でないのか判断できない。仮にトリチウムについては柿沼氏が言う通りだとしても、海洋の環境にかかわるのは、放出される汚染処理水のほかに放射性廃棄物が含まれた地下水がある。

元京都大講師の萩野晃也氏によると、事故原発の地下約100メートルのところに地下水脈があり、沖合5キロメートルの地点で地上に出るとみられる(『汚染水はコントロールされていない』第三書館)。燃料デブリ冷却水は地下に徐々に浸透、いずれ地下水脈に到達する。したがって到達以前に廃炉作業を終わらせる必要があるが、燃料デブリの形状すらはっきりとわかっておらず、廃炉工程を見通せないのが現状だ。政府が汚染処理水放出期間を30~40年としているのは、廃炉までこれくらいかかると見込んでのことと思われるが、「30、40年では廃炉できない」との見方もあり、地下水脈到達を避けることができるかは全く不透明だ。

もう一つは除染されていない森林に残るセシウム問題である。

事故によって放射性物質は阿武隈山地に大量に降り落ちたが、そのほとんどは除染されなかった。原発から20キロ離れた福島県田村市都路地区の原木から2012年6月、1キロ当たり250~2800ベクレルの放射性セシウムを検出。2021年9月現在でも1キロ当たり100~540ベクトルと、国の指標値(1キログラム当たり50ベクトル)を大きく上回っている。他の地区でも同様の状況と見られ、セシウムの多くが降雨や枝葉の落下で地表に落ち、土壌の表面約5センチ以内にとどまっている(9月22日付毎日新聞)。これらのセシウムが地下に浸透しないとは言い切れない。森林は海の環境と無縁ではなく、森林汚染は海洋汚染につながる。この点でも漁業関係者の不安は募るばかりだ。

「放出安全神話」づくりの政府

これまでみてきたように、汚染処理水の海洋放出について、政府は「安全」の立場だ。福島事故によって、原発自体の安全神話は崩れ去ったにもかかわらず、学者を動員しての「放出安全神話」づくりに奔走、「風評被害は科学がわからない愚か者のたわごと」といわんばかりに事故被害住民たちに押し付けようとしている。大気放出案について、政府内部で「放射性物質を含む気体が東京まで飛んで来たらどうしようという不安を考慮」したことを本稿で紹介した。東京の風評被害は考慮しなければならないが、福島の風評被害についは考慮しなくていいというのが本心であろう。

「原発は安全」といいながら、原発は大都市圏でなく過疎地につくられた。「放出安全」と言いながら首都圏は避けて、地元で行われるのであれば、それは「安全でない」からではないのか。気が付いたとき、海は汚染されていた――ということになりはしないかと、私は強く危惧している。