オピニオン《核のボタン》山梨良平

核のボタンが入ったケースを持つロシア人

ウクライナが大変なことになっている。ロシアのプーチンは驚くなかれ、「核攻撃も辞さない」と脅しをかけている。クレムリンの報道官は、ロシアの国が「消滅する危険がある場合」だという。私に言わせれば「プーチン体制の危機」ではないかと疑っている。

核のボタンに手をかけて世界に脅しをかけるプーチン。その前提のようにチェルノブイリやその他のウクライナの原発を攻撃した。攻撃したロシア兵達はもしかして、いやおそらく原発の怖さを知らないのかもしれない。

一方、わが国では安倍元首相が「核の共有」などとこの機を利用して核武装論を述べだした。なんでもアメリカが持っている核兵器を「共用」したいらしい。アメリカが簡単に核のボタンを日本に渡すとは思えないが、少なくともそのように安倍や維新の松井などは考えている。

さて読者の皆さんに質問したい。安倍や松井にあなたは「核のボタン」を持たせたいか?持たせても大丈夫か?勿論非核三原則と言う原則はある。憲法9条と言う縛りもある。しかし彼らはこの縛りを変更するつもりのようだ。(敬称略)

連載コラム・日本の島できごと事典 その54《美女とネズミと神々の島》渡辺幸重

 トカラ列島は屋久島と奄美大島の間、約180kmにわたって点在する島々です。悪石島(あくせきじま)は列島のほぼ中間に位置する島で「美女とネズミと神々の島」とも呼ばれ、島内に「美女とネズミと神々の島」記念碑があります。これは朝日新聞社の秋吉茂記者の著書『美女とネズミと神々の島-かくれていた日本』(1964年)からきたもので、1960年に秋吉が悪石島に1ヶ月間滞在し、朝日新聞に10回連載した現地ルポ「底辺に生きる」がもとになっています。現在でも村営船で鹿児島から約10時間、奄美大島・名瀬港から約5時間かかりますが、当時は接岸できず艀(はしけ)で渡ったため時化のときには欠航せざるをえませんでした。ほとんど知られていなかった島の習俗や信仰、人の生き様などを伝えた内容が反響を呼び、1965年には第13回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

 私はまだ本を読んでいないので、2009年にKTS鹿児島テレビの山元強社長が書いたブログ<悪 石 島 の「美 女」を 想 う>(https://www.city.kagoshima.med.or.jp/ihou/551/551-23.htm)から内容の一端を紹介させていただくことをお許しください。それによると、「美女」とは、島の掟を破って10年前に奄美大島からきた男と同棲した278歳の女性のことで、秋吉の助けもあって隣りの諏訪乃瀬島に脱出し、新たな人生のスタートを切ったということです。ただ山元は、秋吉が「美女」としたのは島全体の女性のことも指しているようだといい、「島の娘のかわいさにくらべて、これ(大人の女性は)はなんというはげしい変貌であろう。長い間の粗食と、過労と、ハダシの生活が“花の命”をけずりとった残骸である」という文章を紹介しています。「ネズミ」とは、1935年に竹が結実して野ネズミが大量に発生し、農作物が甚大な被害を被って飢餓に陥ったことを反映しています。ネズミは海を泳いで渡ってくるともいわれます。「神々」とは、島の至るところに祀ってある「やおよろずの神々」のことで、悪石島では祭祀が多く催されます。旧盆には10日の間、「長崎船」「花踊り」「こだし踊り」「俵踊り」など7つの盆踊りがテラ・墓・釈迦堂・集落の入り口や各家の庭先などで踊られます。最終日には異形の仮面を着けた来訪神「ボゼ」が出現しますが、2017年には「悪石島のボゼ」として国の重要無形民俗文化財に指定され、翌年には「来訪神:仮面・仮装の神々」のひとつとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 目次には「米んめし」「きよらウナグの島」「ネズミさま」「神さまへの挑戦 」「ハダシの美女たち」などの言葉が見えます。ぜひ探しあてて読んでみたい書籍のひとつです。

山城の国物語《第26代継体天皇 002》片山通夫

継体天皇生誕の地・滋賀県高島市

継体天皇誕生

小泊瀬(おはつせの)天皇(武烈天皇)は、若い頃恋に破れてひどい女性不信に陥り、女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、女を裸にして馬と交尾させたり、そのため一生を独身で過ごすはめになり、当然一子ももうけることがなかった。即位から8年で武烈天皇は崩御し、その事で大和朝廷には一大事件が発生する。即ち、世継ぎがいないため王朝断絶の危機に陥ったのである。
重臣達は合議を開き、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)にいる足仲彦(たらしなかつひこ:仲哀)天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせようとしたが、王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまう。
そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)大連、許勢男人(こせのおびと)大臣らと協議して、今度は越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる誉田(ほむだの:応神)天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。 “山城の国物語《第26代継体天皇 002》片山通夫” の続きを読む

山城の国物語《第26代継体天皇 001》片山通夫

最初にお断りしておくが、歴史にとても疎い。言ってみれば、ずぶの素人だ。その素人が継体天皇に関して書こうとするのだから、これはもう「妄想」いや「暴走」の域。つまり素人の思い付き(?)エッセーだとお考えいただければ幸い。とにかく無責任。

謎に包まれた継体天皇

継体天皇の実態はどうも謎の部分が多いと言われている。如何に血筋が大王(天皇)家の遠戚だとしても遠すぎる。こんな言い方は誠に失礼だと思うが、琵琶湖の北方、今でいう高島の生まれで越前の国育ち。当時の都は明日香。明日香から西に一つヤマを越えれば難波津、そのまま船で進めば九州、そして当時の文化の中心だった朝鮮半島がそこに見える。きっと琵琶湖や越前はとんでもない片田舎だったのかもしれない。・・・と思いきや、とんでもない国だった。明日香、平城(奈良)をうかがうのに遠からず近からずと程よい距離を保ち、琵琶湖の水運を利用すれば大軍を運ぶことも可能である。おまけに出雲の国とは指呼の間。かの大国主が古志の国から妃・沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)を娶ったと古事記に記載されている。実際は略奪かもしれない。

さて継体天皇だが、決して大王家の跡取りでほんわかとした人生を歩んできたようではない。そしておよそ九州から東征してきた神武天皇の直系だと言えない素性である。父・彦主人王(ひこうしのおう)と母・媛(ふるひめ)の間に生まれたと日本書紀などでは記載されている。勿論日本書紀では両親とも天皇家の血筋であるとしっかりと記載されているのは言うまでもない。しかし、しかしである。現代のようにDNA鑑定でも出来れば話は簡単だが、そんなわけにもゆかない。知性が武力といずれが必要かと言えばこの時代、武力が先だろう。つまり地域の王たらんとすれば、まず武力が必要だった。周りを力で押さえつけるのである。

ただ不思議なことに生まれたところが現在の滋賀県高島市という湖北と言われるところだ。幼くして父を亡くし、母が自身の出身地である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王(おほどのおおきみ)」として5世紀末の越前地方や東海地方を統治していたと言われている。言い方は悪いがいわば田舎の豪族だったわけである。
神代の時代、大国主が出雲から遠征し越から沼河比売神(ぬなかわひめのかみ)を娶ったというエピソードが載っている。つまり神代の時代から出雲と越は近いのである。さすれば大した田舎ともいえないかもしれない。何しろ出雲王朝の王が大国主なのだ。

謎に包まれた半世紀

地方の豪族然としていた男大迹王であるが、記紀が伝える男大迹王の記録は、出生から幼少の頃、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細にあるが、次の記録は57歳の頃になっており、その約50年間の男大迹王及び振媛の記録はない。男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江も行き来していたと思われる。つまり近江と越前を拠点にしていた。

その不明の半世紀だが筆者は朝鮮半島にも行き来していたのではないかと考えている。何しろ、越前の海や琵琶湖畔を行き来していたのだ。この時代はわが国との交流は実に盛んだったと見受ける。加耶からは鉄器、百済からは文字や仏教が伝えられた時代はこれより少し後の時代だった。
つまり継体天皇の前身・男大迹王がいつかは天下を取らんと百済などから様々な学問や技術などを積極的に学んだと考えても不思議ではない。
謎に包まれた半世紀は男大迹王の朝鮮遊学としたい。

思い起こせば高天原を追放されたスサノオは一旦新羅の国に降り立ったとも日本書紀に記載があった。その後出雲に渡ったとか…。出雲や越国は新羅や百済、加耶に近いのだった。日本書紀の「一書第4」では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後、八岐大蛇を退治した。また続く「一書第5」では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子や娘に命じて全国に植えさせたという。

このスサノオのエピソードを、帝王学としてかの国で学んだ男大迹王は「機を見て待つ」ことを学んだのだと思う。

ウクライナから絵が届きました。

オリガ・ペトローワ

友人のウクライナ人画家オリガ・ペトローワからのメールです。

彼女は現在ある山脈の別荘地の様なところに避難中らしいですが、キエフに帰ると言って周りの人を困らせているようです。自分の眼でキエフの惨状を見て絵を描きたいといっているようです。私も日本に避難してと誘っていますが・・・。

 

ウクライナの伝統刺繍をイメージした「天国の木

 

「庇護者マリア」

オリガ・ペトローワ略歴
 1942年疎開先のロシア・ウラル地方で生まれる。
ウクライナ国立リヴォフ大学美術科卒業。
現在はウクライナ最古の大学モギラ・アカデミーの美術学科教授。美学・哲学博士。美術評論家としても広く知られている。
 現代ウクライナ画壇の実力派として、その力強い油絵は国の内外で高い評価をうけ、ウクライナ国内の主要な美術館で度々個展を開くほか、オーストリア、ドイツ、イギリス、スペイン、ノルウェー、インド、ジョージアでも個展を開き成功を収めている。
 作品は、ウクライナ国立美術館、オーストリア国立美術史美術館(ウィーン)、イギリス国立ブリティッシュ・ミュージアム(ロンドン)、ヤド・バシェム美術館(エルサレム)を始め、ウクライナ各地の主要美術館に収蔵されている。
オリガ・ペトローワ略歴
 1942年疎開先のロシア・ウラル地方で生まれる。
ウクライナ国立リヴォフ大学美術科卒業。
現在はウクライナ最古の大学モギラ・アカデミーの美術学科教授。美学・哲学博士。美術評論家としても広く知られている。
 現代ウクライナ画壇の実力派として、その力強い油絵は国の内外で高い評価をうけ、ウクライナ国内の主要な美術館で度々個展を開くほか、オーストリア、ドイツ、イギリス、スペイン、ノルウェー、インド、ジョージアでも個展を開き成功を収めている。
 作品は、ウクライナ国立美術館、オーストリア国立美術史美術館(ウィーン)、イギリス国立ブリティッシュ・ミュージアム(ロンドン)、ヤド・バシェム美術館(エルサレム)を始め、ウクライナ各地の主要美術館に収蔵されている。