2022春号 Vol.41《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

天皇メッセージ 沖縄占領に関する昭和天皇の英文メッセージ(沖縄県公文書館HPより

今年5月15日、沖縄の本土復帰50周年を迎えます。しかし「沖縄の本土化」という沖縄県民の願いもむなしく、日本にある米軍基地の7割が沖縄に集中、さながら米軍の島と化しています。1月23日に投開票が行われた名護市長選では政府与党が推す現職候補が当選しました。名護市には米軍基地の建設工事が進められています。今年9月に任期満了になる沖縄県知事選が半年後に迫っており、いっそうの″米軍島化″を許すかどうかの分水嶺の年になりそうです。沖縄は戦時中、本土の捨て石にされました。戦後、捨てた石を米軍にほうりなげた形ですが、沖縄に犠牲を強いた一因に天皇の意思があったことが、近年、現代史研究家らによって明らかにされました。
沖縄が本土に復帰した1972年、日本の米軍基地のうち沖縄にあったのは59%でした。ところが50年後の現在、米軍施設の70%が沖縄に集中、沖縄本島の14・6%が米軍のフェンスに囲まれています。

沖縄は日本の面積のわずか0・6%の狭い県。そこに米軍の基地などの施設の7割を押し付けているのです。その結果、日本の99・4パーセントの面積にいる多くの人たちは、米軍基地を目にすることなく暮らしています。これでは国民の間から、沖縄の米軍基地問題に関して、まっとうな議論がなされるはずがありません。沖縄の人たちが米軍に抗議の声を上げても、本土の多くの人たちの耳に届かないのです。
米軍基地の強化を進めたい政府にとってこれほど都合のいいことはありません。米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)が住宅地にあって危険であるとして、1996年、日米両政府間で同基地の返還に合意。その移転先として名護市の辺野古が浮上し、政府は辺野古沿岸を埋め立てて基地を造ることとしました。表向きは普天間移設ですが、V字形の2本の滑走路が計画されており、軍事力を増強し得る新たな基地建設であることは明らかです。2015年、翁長雄志知事(当時)が埋め立て承認を取り消すなど、県民は強く反対の意思をしめしましたが、政府は2018年、埋め立てに着手。ジュゴンなど絶滅危惧種が生息する美しい辺野古の海の環境は無残に破壊されています。
名護市長選で、辺野古基地建設反対陣営の候補が敗れたのは、基地建設が進んでいる現状を目の前にした地元の人たちが諦めだしたためであると思われます。「基地建設に反対しても何も変わらない。ならば生活が豊かになった方がいい」という、おかねのある暮らしへの素朴な願いに多くの人たちが傾斜したのでしょう。事実、当選した候補者は、国の米軍再編交付金を財源とする保育料、学校給食費、子供医療費の無料化を公約に掲げていました。かつて原発立地のために政府や電力会社が地元対策として行ったのと同じ手口です。
名護市長選の敗北で、再選を目指す玉城デニー知事にとって、見通しが極めて厳しくなったことは紛れもありません。県民の思いが揺れ動く中で、5月に復帰50周年記念事業が行われるのです。基地が縮小されてきたならたしかに記念と言えるでしょう。逆に拡大されてきた現実をみれば、「鬼年」あるいは「忌年」という漢字を使うほうが実態に合うようにおもいます
私はBS-TBSで2019年から毎週1回放送されている、「関口宏のもう一度!近現代史」という番組をほぼ欠かさず見ています。明治維新から戦後に至る歴史について、関口さんの質問に作家の保阪正康氏が答える形で番組が進められています。残っている写真や新聞、映像や当時はやった歌などを交えた生きた近現代史講座です。
先日の番組で、天皇と沖縄の関係について取り上げられました。昭和天皇は米軍による沖縄の軍事占領の継続を望んでいたというのです。沖縄県公文書館のホームページを開いてみました。それによると、2008年3月25日、アメリカの国立公文書館から天皇のメッセージが公開されました。1947年9月19日、宮内府御用掛、寺崎秀成が対日理事会議長兼連合国最高司令官外交局長、ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問し、米国による沖縄の軍事占領に関する天皇の見解を伝えた。シーボルトはその内容をまとめ、20付で連合国最高司令官に、22日付で米国務長官に報告された――というもので、ホームページにはシーボルトから国務長官に宛てた英文の文書が添付されています。
そのメッセージの内容は①米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む②占領は日本の主権を残したまま長期租借によるべき③(占領)手続きは米国と日本の2国間条約によるべき、としています。また、メモには「天皇は米国の沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」とあり、昭和天皇の反共の思いから出たメッセージであることがうかがえます。
私は二つの点で驚きました。1947年9月といえば憲法が施行(1947年5月3日)の4カ月余り後です。憲法は「国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とする」(第3条)と規定し、天皇の政治行為を否定しています。しかし、昭和天皇は憲法の規定を知ってか知らでか、軍事・外交に関する極めて重大な政治活動を行ったのです。
もう一点は、昭和天皇の意図通り、日米安保条約が結ばれ、沖縄の軍事基地が固定、琉球列島全体に、引き続きアメリカの占領が続いたことです。「日本の主権を残す」点については本土復帰を待たねばなりませんでした。
我が国は公には元号をつかっています。世界でただ一つ「昭和時代」という時代がある国です。その時代は言うまでもなく昭和天皇が天皇であった時代です。戦前、陸海軍を総帥(大日本帝国憲法第11条)していた天皇は、戦後、沖縄の米軍基地化にからんでいたのです。昭和という時代を考えるうえで、天皇のメッセージは非常に重要な意味を持っているように思います。
「昭和」は大人だけのものではありません。本号では「びえんと」で、今年1月に発刊された『小学生が描いた昭和の日本』を通して、子どもたちの昭和を探ってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年5月15日、沖縄の本土復帰50周年を迎えます。しかし「沖縄の本土化」という沖縄県民の願いもむなしく、日本にある米軍基地の7割が沖縄に集中、さながら米軍の島と化しています。1月23日に投開票が行われた名護市長選では政府与党が推す現職候補が当選しました。名護市には米軍基地の建設工事が進められています。今年9月に任期満了になる沖縄県知事選が半年後に迫っており、いっそうの″米軍島化″を許すかどうかの分水嶺の年になりそうです。沖縄は戦時中、本土の捨て石にされました。戦後、捨てた石を米軍にほうりなげた形ですが、沖縄に犠牲を強いた一因に天皇の意思があったことが、近年、現代史研究家らによって明らかにされ
沖縄が本土に復帰した1972年、日本の米軍基地のうち沖縄にあったのは59%でした。ところが50年後の現在、米軍施設の70%が沖縄に集中、沖縄本島の14・6%が米軍のフェンスに囲まれています。沖縄は日本の面積のわずか0・6%の狭い県。そこに米軍の基地などの施設の7割を押し付けているのです。その結果、日本の99・4パーセントの面積にいる多くの人たちは、米軍基地を目にすることなく暮らしています。これでは国民の間から、沖縄の米軍基地問題に関して、まっとうな議論がなされるはずがありません。沖縄の人たちが米軍に抗議の声を上げても、本土の多くの人たちの耳に届かないのです。
米軍基地の強化を進めたい政府にとってこれほど都合のいいことはありません。米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)が住宅地にあって危険であるとして、1996年、日米両政府間で同基地の返還に合意。その移転先として名護市の辺野古が浮上し、政府は辺野古沿岸を埋め立てて基地を造ることとしました。表向きは普天間移設ですが、V字形の2本の滑走路が計画されており、軍事力を増強し得る新たな基地建設であることは明らかです。2015年、翁長雄志知事(当時)が埋め立て承認を取り消すなど、県民は強く反対の意思をしめしましたが、政府は2018年、埋め立てに着手。ジュゴンなど絶滅危惧種が生息する美しい辺野古の海の環境は無残に破壊されています。
名護市長選で、辺野古基地建設反対陣営の候補が敗れたのは、基地建設が進んでいる現状を目の前にした地元の人たちが諦めだしたためであると思われます。「基地建設に反対しても何も変わらない。ならば生活が豊かになった方がいい」という、おかねのある暮らしへの素朴な願いに多くの人たちが傾斜したのでしょう。事実、当選した候補者は、国の米軍再編交付金を財源とする保育料、学校給食費、子供医療費の無料化を公約に掲げていました。かつて原発立地のために政府や電力会社が地元対策として行ったのと同じ手口です。
名護市長選の敗北で、再選を目指す玉城デニー知事にとって、見通しが極めて厳しくなったことは紛れもありません。県民の思いが揺れ動く中で、5月に復帰50周年記念事業が行われるのです。基地が縮小されてきたならたしかに記念と言えるでしょう。逆に拡大されてきた現実をみれば、「鬼年」あるいは「忌年」という漢字を使うほうが実態に合うようにおもいます
私はBS-TBSで2019年から毎週1回放送されている、「関口宏のもう一度!近現代史」という番組をほぼ欠かさず見ています。明治維新から戦後に至る歴史について、関口さんの質問に作家の保阪正康氏が答える形で番組が進められています。残っている写真や新聞、映像や当時はやった歌などを交えた生きた近現代史講座です。
先日の番組で、天皇と沖縄の関係について取り上げられました。昭和天皇は米軍による沖縄の軍事占領の継続を望んでいたというのです。沖縄県公文書館のホームページを開いてみました。それによると、2008年3月25日、アメリカの国立公文書館から天皇のメッセージが公開されました。1947年9月19日、宮内府御用掛、寺崎秀成が対日理事会議長兼連合国最高司令官外交局長、ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問し、米国による沖縄の軍事占領に関する天皇の見解を伝えた。シーボルトはその内容をまとめ、20付で連合国最高司令官に、22日付で米国務長官に報告された――というもので、ホームページにはシーボルトから国務長官に宛てた英文の文書が添付されています。
そのメッセージの内容は①米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む②占領は日本の主権を残したまま長期租借によるべき③(占領)手続きは米国と日本の2国間条約によるべき、としています。また、メモには「天皇は米国の沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」とあり、昭和天皇の反共の思いから出たメッセージであることがうかがえます。
私は二つの点で驚きました。1947年9月といえば憲法が施行(1947年5月3日)の4カ月余り後です。憲法は「国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とする」(第3条)と規定し、天皇の政治行為を否定しています。しかし、昭和天皇は憲法の規定を知ってか知らでか、軍事・外交に関する極めて重大な政治活動を行ったのです。
もう一点は、昭和天皇の意図通り、日米安保条約が結ばれ、沖縄の軍事基地が固定、琉球列島全体に、引き続きアメリカの占領が続いたことです。「日本の主権を残す」点については本土復帰を待たねばなりませんでした。
我が国は公には元号をつかっています。世界でただ一つ「昭和時代」という時代がある国です。その時代は言うまでもなく昭和天皇が天皇であった時代です。戦前、陸海軍を総帥(大日本帝国憲法第11条)していた天皇は、戦後、沖縄の米軍基地化にからんでいたのです。昭和という時代を考えるうえで、天皇のメッセージは非常に重要な意味を持っているように思います。
「昭和」は大人だけのものではありません。本号では「びえんと」で、今年1月に発刊された『小学生が描いた昭和の日本』を通して、子どもたちの昭和を探ってみました。