連載コラム・日本の島できごと事典 その51《ピール島植民地政府》渡辺幸重

ナサニエル・セ-ボレーの直系子孫たち(20世紀前半撮影)

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたのは1853年6月、アメリカ東インド艦隊(司令長官:ペリー提督)が三浦半島・浦賀沖に現れたときのことです。ペリーは浦賀来航前の5月に琉球を訪れ、首里城で琉球国に通商を要求したあと小笠原諸島を探検しました。そのあと、浦賀に行き、さらに翌年3月に再訪して江戸幕府と日米和親条約を結ぶことになります。
小笠原諸島・父島には1830年6月にハワイ王国オアフ島からナサニエル・セーボレーら白人5人と太平洋諸島出身者25人が入植し、1837年には42人が住んでいたといいます。1853年5月、ペリーは小笠原諸島を太平洋横断航路の中継基地とするため4日間滞在し、ピール島(父島)の二見湾を良好な碇泊地として事務所・波止場・石炭集積所の建設地となる土地を50ドルで購入しました。そして、3条13項からなるピール島植民地規約を制定し、セーボレーを首長とする「ピール島植民地政府」を設立しました。このときの土地売買契約書はアメリカの図書館に所蔵されており、ナサニエルから5代目のセーボレー孝さんが探し出し、小笠原諸島返還50周年の2018年に紹介されています。
ペリーは島民にアメリカ領有宣言をした銘板の写しを設置するよう命じ、小笠原諸島はアメリカ領になったはずでした。『ペリー艦隊日本遠征記』から小笠原の重要性を知り、あわてた江戸幕府は1861年に外国奉行・水野忠徳を隊長とする咸臨丸を小笠原へ派遣。島民代表に父島が日本領であることを宣言し、江戸幕府が定めた開拓規則を守ることを約束させました。1876年になって明治政府が小笠原諸島の再開拓に着手し、小笠原の日本統治を駐日各国公使に通告してやっと日本の領有が確定しました。ピール島植民地政府は夢と消えたのです。
実は、ペリーが小笠原に立ち寄る前の1827年にもイギリス船が父島に来航し、領有宣言を行ったことがありましたが、イギリス政府はこれを正式には承認しませんでした。1835年には駐マカオ貿易監督官がイギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、小笠原を占領するよう要請し、1837年にイギリス海軍のローリー号が父島で各種の調査を行いましたが、1840年から2年間にわたるアヘン戦争でイギリスが清国に勝利して香港を獲得したため小笠原諸島の占領は見送られました。小笠原諸島周辺にも欧米列強の艦船がうごめき、小笠原諸島はいまにも欧米のアジア進出の波に飲み込まれそうだったのです。