びえんと《写真と絵で見る昭和の子ども》文 Lapiz編集長 井上脩身

私ごとで恐縮だが、3年前、自分の子どものころの思い出をエッセーふうの童話にしてみようとおもいたった。書きだすと、挿し絵をつけたくなった。となると、そのころの子どもの遊びや風俗、都会や田舎の景色を知る必要がでてきて、10冊余りの本をかいこんだ。これらの図書の記述や写真が、すっかり忘れていた記憶を呼び覚ましてくれ、私なりに「昭和の子ども」という概念ができあがった。その概念が最近、ガツンとくずされた。『小学生が描いた昭和の日本』(写真左)という本に触れたからである。「児童画500点 自転車をこいで全国から」という副題の通り、一人の青年が全国をかけまわって集めた児童の絵が収録されたもので、今年1月、石風社から刊行された。昭和とは何か。本のページを繰りながら、私は考えこんでしまった。

エッセーふう童話と昭和の写真

本稿は昭和がテーマなので、昭和の元号で書き進めることを断っておきたい。
私は昭和19年に生まれ、26年に小学校に入学、32年に卒業した。私の子ども時分というのは、時代区分でいえばおおむね25年ころから30年代のはじめまでにあたる。小学校5年生のときに電気洗濯機を浴室にすえるという比較的進んだ家であったが、テレビはなかった。大半の家庭では、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の3種の神器とは無縁。情報は新聞が頼り。娯楽はラジオの番組であった。
私がかいたエッセーふう童話を読み返すと、紙芝居を木にのぼって見たこと、ターザンごっこややベッタン(めんこ)などの遊び、カブトムシ取りや運動会でのおゆうぎなど、たわいないものばかりである。木炭バスや傷い軍人も登場していて、戦後の貧しさが行間にぷんぷんしている。
エッセーふう童話というのは、私がかってに言いだしただけで、そのようなジャンルはないだろう。エッセーというノンフィクションと童話というメルヘン物語の融合というあいまいな世界だが、土台は私自身の実体験。「機関車きょうそう」という題でかいた物語が私には思い出深い。新築中の家の大工さんに、余った木で機関車をつくってもらい、機関車にまたがってぶつかり合うという話だ。私がミカン箱で乗り物をつくった経験からストーリーを展開させた。
思い起こすと、木の枝を切ってチャンバラをしたり、使ってないゴザをソリ代わりにしたり、竹で水鉄砲をつくったり、いらない箸をゴム鉄砲にしたりと、周りにあるものを道具にして遊んだものだ。おもちゃ屋で飛行機だこやグライダーの材料を買ったことがあるが、翼の部分は竹ひごをローソクの火であぶって曲げ、紙をはっていくのは自分の仕事だ。遊ぶためには、道具づくりに手間暇をかけるか、知恵をはたらかさねばならなかった。
以上はわたしの体験である。世の中はどうだったのだろうか。私が最も参考にしたのが『失われた日本の風景』(河出書房新社)という写真中心の本だ。「都市懐旧」と「故郷回想」の2巻からなっていて、いずれも写真は薗部澄氏、文章は神崎宣武氏。薗部氏は大正10年生まれ。略歴欄には風景写真、民俗写真の第一人者とあり、平成6年度芸術選奨文部大臣賞を受賞している。神崎氏は私と同い年。民俗学者の宮本常一氏に師事したという。
『失われた日本の風景』の特徴をよく表しているのは「都市懐旧」編の表紙の写真であろう。がれきの原っぱで、土管の上で遊んでいる子どもたちの明るい表情を捉えた温かい図柄である。昭和27年、東京都北区で撮った一枚だ。「故郷回想」編では、海際で牛に引かれるリヤカーに乗る幼い男の子に目を奪われた。私も学校からの帰り、牛が引くリヤカーに乗せてもらったことがあり、エッセーふう童話の中でも「牛のリヤカー」の題で、物語をつくっている。私の文章に出てくる牛の名前はベンケー。向こうから牛がやってきて、すれちがいざま、ベンケーがはげしくウンチをたれた。このくだりはフィクションである。
子どもたちの表情にしぼってみると、「都市懐旧」編ではやはり紙芝居。次いで竹馬、メンコ、それにチャンバラ。昭和30年、香川県で撮影されたものだが、やはり何かの棒を刀代わりにしている。「故郷回想」編では、子どもが遊ぶ場面はほとんどなく、木枝の束がいっぱい詰まっているかごを背負う女の子や、お母さんと農作業から帰る姉弟、リヤカーでやってきた移動販売に集まる子どもたちの写真などが印象的である。テングサのゴミ取りの手伝いをする3歳くらいの男の子の写真もある。山村、漁村では子どもも大事な労働力だったのだ。
『失われた日本の風景』以外にも、エッセーふう童話を書く上でいろいろな本を参考にしたことはすでに述べた。『昔遊び図鑑』(坂本卓男、東京書籍)では三角ベース、缶蹴り、鬼ごっこ、馬跳び、『昭和わんぱく遊び図鑑』(佐伯俊男、ビリケン出版)では鉄棒蹴り、『昭和の子ども図鑑』(櫻井尚、東洋出版)では手作りゴーカート、『なつかしの小学校図鑑』(奥成達、いそっぷ社)では水雷艦長(私たちはクチクとよんでいた一種の戦争ごっこ)、『遊びの四季』(かこさとし、復刊ドットコム)では、ささ舟や早とり写真。
思えば漁るように「昭和子ども本」を買い求めたのであった。

機会化、近代化を描く児童画

『小学生が描いた昭和の日本』は鈴木浩さんが昭和44年10月から翌年10月にかけ、自転車で全国を回って120の小学校から集めた、児童が描いた絵500点を収めた画集だ。全都道府県の児童の絵が載っており、大阪万博が開かれた昭和45年ころの子どもがどのようなことに関心をもっていたかを示す貴重な資料である。
鈴木さんは昭和20年生まれ。私と同世代である。同書のまえがきである「児童画収集への思い」によると、子どもが伸び伸びと自由に描いた絵を日本中から集めて児童画展を開いたらどんなに楽しいだろうと、大学を卒業後、就職せずに自転車で東京を出発し、学校にとび込んだ。たびたび提供を断られながらも初志を貫徹、昭和45年11月21日から12月11日の間、銀座と日比谷の地下道のギャラリーで展覧会を開催した。
作品は「宝物」として鈴木さんが保管していたが、平成25(2013)年、友人の協力を得て作品をデジタル化して「ウェブサイト児童画展・ありがとうの絵」というホームページを作成。「私が小学校のころに描いた絵です」と当の本人からメールが届くなど、大いに反響があり、本として出版することとなった。
新聞広告を見て、私は躊躇なくこの本を買い求めた。鈴木さんがまえがきに「地域の自然や風景、人々の生活や働く姿、学校生活など、子どもたちが描いた昭和の日本がそこにある」と書いている通り、ページを開いたとたん、当時の子どもたちの息づかいが伝わってきて、身震いする思いをした。
しかし、ページをめくるうち、先に述べた『失われた日本の風景』に収録されている写真とは幾分違いがあることに気づいた。風景や大人の仕事を描いた絵に「開発」あるいは「近代化」といった要素がまじっているのだ。子どもたちが開発や近代化はいいことだという思いがあるから、そうしたことに目がいくのであろう。
以下、具体的に作品を紹介したい。

【炭鉱】
昭和45年ころは炭鉱は完全には閉じてはいなかった。福島県いわき市の5年生の「常磐炭鉱」はベルトコンベアーを画面いっぱいに表現。福岡県飯塚市の3年生の炭鉱の絵も、ベルトコンベアーが力強く表現されている。
【農作業】
山形市の5年生の「畑仕事の手伝い」は耕運機を操るお父さんが主人公。福井県三方郡の4年生は農薬散布がテーマ。
【港湾】宮城県石巻市の4年生はサンマの陸揚げをするクレーンを強調。静岡県富士市の6年生の「田子ノ浦港」も、長崎県島原市の3年生の「みなと」も小型クレーンが大活躍だ。
【工場】
材木の町、秋田県能代市の4年生の「せい材工場」では電動のこぎりの力強さを表現。岐阜県土岐市の5年生は陶器づくりのためのトンネル窯が電気窯に変わっていることを生き生きと描く。京都府宇治市の4年生の「ユニチカ宇治工場」は、もくもくと吐き出される煙の迫力が満点だ。
【近代都市化】
仙台市の2年生はとりどりの色で「ビルがいっぱい」を描く。愛知県刈谷市の3年生の作品はニュータウンの中層ビルを画面いっぱいに。大阪府箕面市の4年生は稲干しと新しい町が同居。河内長野市の6年生の「私の町」はブドウ畑が造成されて住宅地に変わろうとしているところを描いた作品。
【マイカー】
栃木県日光市の5年生の商店街の絵はマイカーが行き交う。三重県志摩郡の5年生の「茶つみ」には茶畑の向こうにマイカー。
【道路工事】
モータリーゼーションの波が急激に押し寄せ、道路は拡張されるとともに砂利道からアスファルトに変わる。田舎の子どもたちにとっても分かりやすい近代化であった。愛媛県宇和郡の3年生はパワーシャベルをまん中にどんとおく。佐賀市の3年生の絵は砂利を運び上げる重機を扱う作業員のワクワク感を見事にとらえる。
【除雪】
雪国にとって雪との闘いは生活するうえで欠かせない。青森市の4年生の「除雪」はキャタピラーつきの除雪車の動きを俯瞰して描く。同市の1年生の「じょせつさぎょう」は、除雪車と周囲の人たちの手作業と対比した作品。
【空港】
熊本県菊池市の1年生は熊本空港に駐機するYS11型機をえがいた喜びあふれる絵だ。
【公害】
熊本県水俣市の6年生の「水俣川」は、チッソの工場より上流の川の澄んだ水を表す。同市の別の6年生の「チッソ工場」は工場の手前の黒くて太い7、8本のケーブルをえがいた。いずれも公害のことを描きたかったかどうかはわからない。
【万博】
大阪万博の年だが、実際に万博を描いたのは京都市の5年生の「万博」の1点だけ。太陽の塔の表情がかわいい。
【未来】
奈良県斑鳩郡の5年生「地下の町」には地下堀りマシーンが登場。函館市の1年生は宇宙船を描く。

以上の絵は『失われた日本の風景』には
見られない作品である。

ラジオの時代とテレビの時代

『小学生が描いた昭和の日本』の絵にも、昔ながらの日本の風景が表された作品は少なくない。秋田県大館市の5年生の「ばっさい」は、安全ロープもつけずに大木の幹にしがみついて枝をはらう作業員の姿がダイナミックなタッチで描かれている。この作品集のなかで私が最も心をひかれた作品だ。山形県西田川郡の5年生の収穫の絵では、女性たちが収穫した稲を束ねる様子が描かれ、岩手県遠野市の6年生や愛知県刈谷市の4年生は手植えする田植えを描いている。昭和45年ころは、農林業の機械化はまだ進んでいなかったのだと思われるが、こうした作品には人の温もりが感じられ、私はほっと心がなごむ。
『失われた日本の風景』に収録された写真は、ほぼ私の子どものころの昭和30年前後世界をとらえている。『小学生が描いた昭和の日本』の作品に表された世界との違いを直視すると、昭和30年代と40年代は、同じ昭和でありながら別の時代とみるしかない。30年代後半から40年代初めにかけて、時代がガラガラと音をたてて変化したことを視覚的に示しているのである。
昭和30年代後半といえば、35年に池田勇人首相が所得倍増計画を打ち上げ、高度経済成長へと邁進したときだ。39年の東京オリンピック開催と相前後して東海道新幹線が開通。その前年には名神高速道路ができ、高速道路時代が幕あけした。45年の大阪万博で経済成長もピークを迎える一方で、その裏面として水俣病などの4大公害をはじめ、大気汚染、水質汚濁、騒音などの環境悪化が如実になった。しかし、『小学生が描いた昭和の日本』の絵には、大阪万博をかいた1点を除いて、こうした作品は見られない。水俣を描いた絵も、すでに触れたように公害に対する怒りの表現であるかどうかはわからない。経済成長のシンボルである新幹線も東京オリンピックも、そして高速道路も子どもたちの絵の素材にならなかったのはなぜだろう。
児童の絵は各学校の先生から提供されたものだ。「児童画展を開くため」と言われれば、先生たちに「いい作品を選ぼう」という心理が働くだろう。教育委員会に叱られるような作品を出すのはやめようと思うかもしれない。だが、新幹線や高速道路の絵ならばオカミも問題にしないはずだ。先生が絵を出さないのではなく、子どもたちは描かなかったにちがいない。
新幹線や高速道路の開通は時代の変化を表すものであることは、現代史上の常識だ。しかし、子どもの目に映る世界はどうやら異なるようである。子どもたちは、どんな世界であれ機械化、近代化に新鮮な驚きと感動をおぼえるのだ。それは、朝から晩まで力仕事をしなければならなかったお父さんやお母さんの激務が大きく減ることにつながることを知っているからだ。それが結果として人減らしにつながるとまでは、子どもは考えない。
子どもにとって、自分の世界を感じ取るのはおおむね10歳ころであろう。言い換えれば10歳ころの生活や体験がその子の生きていくうえの土台になる、と私は思っている。
本稿でも触れたが、私にとって娯楽はラジオであった。「とんち教室」を家族とともに聞いたのを鮮明に覚えている。昭和45年ころの10歳といえば、15歳半下の私の姪の年の子だ。小学校に上がったころ、「ひょっこりひょうたん島」が始まると、テレビにかじりついていた。4年生ころにはテレビは姪の生活の一部になっていた。
このように考察すると、『失われた日本の風景』はラジオ時代の子ども、『小学生が描いた昭和の日本』はテレビ時代の子どもを表しているといえるだろう。テレビ時代は同時に経済成長の時代であり、機械化、近代化の時代でもあった。そして我が国が経済大国に向かう最中でもあった。子どもたちの目は、こうした機会化、近代化を「ぼくらの世界」としてとらえたのだ。
昭和は64年まである。この長い期間は、戦前・戦中と戦後に分かれる。その戦後も40年以上に及び、五輪・万博前の経済成長期と、この後のバブルの時代と区分できるだろう。しかし、子どもが見る世界という観点に立てば、昭和前期・ラジオの時代、昭和後期・テレビの時代と区分けできるように思われる。
昭和45年前後、大学は紛争にあけくれた。だがいつの間にか、学生運動が下火になった。あるいは子ども時分がラジオの時代とテレビの時代との違いなのかもしれない。耳からの情報だけで想像をふくらまして大胆(ときに極端)な行動に出るのに対し、テレビによって世界が見えすぎると、激しい学生運動がつぶされることも予知でき、行動を自己規制するということかもしれない。