連載コラム・日本の島できごと事典 その52《オロンコ岩》渡辺幸重

北海道の知床半島北岸に網走湾に面してオロンコ岩と呼ばれるドーム状の岩島があります。陸続きになっている大きな岩で、ウトロ崎へのトンネル道路が貫通しています。頂上にはオロンコ岩チャシ遺跡があり、先住民族「オロッコ」の夏家の炉跡であるといわれます。オロンコ岩の名称はオロッコ族に由来しますが、自らは“ウィルタ”と呼んでおり、ウィルタ協会はオロッコを蔑称だとしています。
昔、オロンコ岩にはウィルタ族の砦(オロンコ岩チャシ)があり、その南西約1kmのチャシコツ崎(亀岩)にはアイヌ族の砦(ウトロチャシ)がありました。両者は戦い、アイヌが勝利したといわれますが、以下のような伝承もあります。

写真:オロンコ岩(Webサイト<お城解説「日本全国」1100情報【城旅人】>より)https://sirotabi.com/1039/


ある日、アイヌ側が海草で作ったクジラの人形に魚をくくり付けて海に浮かべたところ明け方に鳥の群れが集まり、大騒ぎをしているその光景を見たウィルタ族は「寄り鯨だ」と島を降り船場へ走って行きました。そのとき、岩かげに隠れていたアイヌがウィルタを取り囲んで攻撃し、あっという間に全威させてしまいました。
ウィルタ族はツングース語系といわれる少数民族で、サハリン(旧樺太)で少数のトナカイを飼い、これを移動・運搬の手段として狩猟や漁労を営んだそうです。1925年(大正14年)頃はサハリンに500人弱の人口があったといわれます。第二次世界大戦後に数家族が北海道網走市に移住し、1975年(昭和50年)にダーヒンニェニ・ゲンダーヌをリーダーとする「オロッコの人権と文化を守る会」(翌年ウィルタ協会に改称)が設立されました。ゲンダーヌは戦時中はサハリンに住んでいましたが、1942年(昭和17年)に日本陸軍の特務機関に北川源太郎という日本名で召集され、ウィルタ族・ギリヤーク族(ニヴフ)計40人がソ連軍の動きを探る「北方戦線の秘密戦士」として諜報活動や軍事訓練に当たらせられました。戦後はソ連軍によって10年近くシベリアに抑留され、ゲンダーヌ一人だけが生き残り、網走市に移りました。しかし、当時の少数民族には日本国籍も兵役義務もなく、召集は非公式の令状によるものだったとして軍人恩給支給などの戦後補償は与えられませんでした。日本の戦争責任の問題はこういうところにも残っています。
1978年(昭和53年)、網走市にジャッカ・ドフニ(ウィルタ語で「大切な物を収める家」)と名付けられた資料館が完成(2012年閉館後は北海道立北方民族博物館に収蔵資料を移管)、1982年(昭和57年)5月には合同慰霊碑「キリシエ」が建立されました。