とりとめのない話《ジャズする心》中川眞須良

昨年暮れから今年にかけメデイアを通じジャズの話をよく耳にする。それも流れている曲はなんと「サッチモ」ではないか、何だこれは?と思ったがその理由を知って納得がいった。
震源地はNHKの朝ドラである。
それにしても 時代があまりにも古い。彼のジャズの世界を初めてレコード(Sp?)で知ったファンは今 どうしているのだろうか、平均年齢は優に80を超えていると思われる。数年に一度?はジャズの話題が巷をさまそう時があってもすぐ、行方知れずになることが常であるが今回はどうであろうか。

私が「ジャズが好きで毎日 レコードを回している。」との話題の相手からよく同じ感想が返ってくる。その一つは「人間が古い」である。ジャズ好きが古いのか レコードを聞くことが古いのか・・・・ 恐らく両方であろう。

もう一つは「ジャズは難しくてよくわからん」である。
実は自分自身もよくわからないし わかろうとも思わないが 今、この機に自身とジャズとの接し方 向き合い方を確認出来ればおのずとこれらの疑問が解決できるかもしれない。

さてこのジャズ 一般的にジャズ ロック クラシック ポピュラー その他などと 音楽の一つのジャンルとして受け取られている。これらは単に人間の耳(聴覚)に聞こえてくる表面的な音による分類に過ぎない。
そもそも歴史的には19世紀末、アメリカで起こった黒人的なラグタイム感覚を基本リズムとした音楽全般 などと定義づけられている反面 「ジャズはフオービートだ!」と一言で断じられている世界でもある。
それならば「サッチモ(ルイ・アームストロング)」の世界はどうであろう?
聞く側の感情としてラグタイム感やビート(拍子))を意識してあのボーカル、あのトランペットを聞く人は少ないはずである。
即ちジャズとは「音楽(リズム、メロディー、ハーモニーなど)の枠を取り外し、さらに表面的な音楽のジャンルにとらわれない全く自由な感覚の世界」と定義すれば一歩ジャズに近づけるのではなかろうか。
この「自由な感覚」を少し具体化すれば 感動、落胆、怒り、絶望、拒絶、黙認などすべてを含めた「叫び」である 「心の叫び」の受け止め方である。演奏者と視聴者、この両者の感覚のズレに対する疑問、これもまた全く無視することが許される世界でもある。
もう一つの自由、 それは演奏の手段 叫びの手段 即ち楽器である。一般的な楽器の他 ピッコロ、オーボエ、チューバ、ヴァイオリン、チェロ、オルガン、琴、尺八、三味線、アコーディオンなどすべての楽器を含め 時には観客の手拍子、口笛までもがその手段であり 何の拘束 制限もなく全く自由にこの世界に参加できる。
過去の私のように偶然 ピッコロ、琴、尺八によるトリオ演奏に接する機会を持てばこの世界を覗いてみたい衝動に駆られること請け合い?。さらに ラグタイムとスイング感の衣を身に纏い続けることができればその時 心はすでにジャズしている、即ちジャズっているのだ。

先に述べたサッチモ(ルイ-アームストロング)のあの しゃがれ声の「心の叫び」、中身は何なのだろうか。
そしてこの疑問そのものが「JAZZ」なのかもしれない。

サッチモを聞く(youtube)