編集長が行く《社会的欲求不満の暴発か?》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

クリニック放火殺人事件犯の動機を探る

現場周辺の上空写真(2021年12月18日付毎日新聞より)

2021年12月17日、大阪市の心療内科クリニックで放火され、クリニックの院長(49)や患者ら25人が死亡する悲惨な事件が起きた。容疑者の男T(61)は死亡し、犯行動機は永遠のナゾである。現場は以前私が勤めていた会社のすぐ近くにあり、毎日のようにクリニックが入っている雑居ビルの前を通っていた。事件の数日後、現場を訪ねた。クリニックを覗くことができれば、動機をうかがわせる何らかのヒントがあるのでは、と思ったからである。だがビルの入り口は青いシートで覆われており、捜査関係者以外は中に入れない。何か手がかりはないかと調べてみると、東京のある心療内科医がコロナ禍のなかの人々の心理的不安について、マズローの欲求5段階の欠如を指摘していることがわかった。マズローの欲求5段階説

シートで覆われた大量殺人事件現場のクリニック

マズローの欲求5段階説(マズローの法則)は、人間の欲求には五つの段階があるとする心理学の理論だ。アメリカの心理学者、アブラハム・マズロー(1908~1970)が考案した。マズローは外観から観察された行動ではなく、主観的な心の動きを重視して人間の心理にアプローチしようというもので、人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階があるとする。これらは生理的欲求を底辺、自己実現欲求を頂点とするピラミッド状に序列されており、低次の欲求が満たされるごとにもう1段階上の欲求をもつようになる、という。
生理的欲求は空腹を満たすなどの最低限生命を維持するための欲求。食欲、睡眠欲、性欲の3大欲求のほか、呼吸をしたい、排泄をしたい、水を飲みたいという欲求も生理的欲求である。
生理的欲求が満たされると、次に求めるのは安全の欲求。身体的に安全で、かつ経済的にも安定した暮らしをしたいというもので、いつ生活が脅かされるかわからない不安定な状況を脱し、少しでも安定した環境で暮らしたいという欲求である。
社会的欲求は家族や組織など、何らかの社会集団に所属して安心感を得たいという欲求を指す。どこにも所属していない寂しさは、社会的欲求を充足できていないことを示しており、自分を受け入れてくれる親密な他者の存在が不可欠とされる。
承認的欲求は、単に集団に所属するだけでなく、所属する集団のなかで高く評価されたい、自分の能力を認められたいという欲求。学校で友だちを求めたり、SNSで自分の投稿に「いいね!」をつけてほしいとおもうことは承認の欲求である。
自己実現の欲求は、自分しかできないことを成し遂げたい、自分らしく生きたいという欲求だ。たとえていうと「歌手になりたり」という思いを実現したいという欲求である。こうした欲求を持つと、理想と現実のギャップに悩むことになりかねず、自己実現の欲求を満たすのは容易ではない。
以上は、マズローの法則の教科書的解説である。欲求を満たそうと人は努力する。だが、現実社会はそう甘くはない。欲求が満たされなければ不満をもち、何としてでも手に入れようとするか、実現を阻むものに対して攻撃を加える。マズローの法則は裏返せば、犯罪行為や不正行為の5段階といえるだろう。食べる米がないために米穀店を襲うのは生理的不満、暗黒街で自己防衛のために拳銃を発射するのは安全の不満であろう。社会から阻害されたと感じて電車内で無差別殺人に及ぶのは社会的不満、結婚を反対されて父親を殴ったら承認の不満とみることができる。大学入学共通テストを受験中、問題をスマホで撮影して外部の者に解答を依頼した受験生のカンニング行為は、このままでは志望大学に入れないという自己実現の不満ととらえることができる。

増える無理心中事件

現場ビル前で取材活動をする報道陣

クリニック殺人事件のTはマズローの法則に照らせば、どの欲求に対する不満なのだろうか。まず事件の概要をふまえておきたい。
報道によると2021年12月17日午前10時20分ごろ、大阪市北区曽根崎新地の8階建て雑居ビルの4階の心療内科「西梅田こころとからだのクリニック」で、61歳のTがガソリンを引火させた。炎があがるとともに同クリニック内に煙が充満、4階にいた29人が巻き込まれ、25人が一酸化炭素中毒で死亡した。同クリニックには800人以上が通院している。金曜日であった事件当日は「リワークプログラム」と呼ばれる、職場復帰を目指す患者を支援する集会が開かれていた。このグループワークは、同じ境遇の人たちが仲良くなれる場でもあった。Tは集会で多くの患者がいることを知っていたと思われる。
Tは事件前、大阪市西淀川区の自宅を放火し、ボヤのうちに消し止められていた。室内からは「京都アニマ―ション」放火事件を報じる新聞紙面があったほか、「大量殺人」と手書きしたメモも見つかった。大阪府警は京アニ事件を模倣した疑いがあるとみている。
Tは大阪市此花区の板金工場を営む家庭の4人兄弟の次男として育ち、高校卒業後、実家で板金の腕を磨いた。しかし母親が亡くなったことから実家と疎遠に。やがて看護師だった女性と結婚、二人の息子に恵まれ、1200万円のローンを組んで西淀川区にマイホームを購入。1級建築板金技能士の国家資格を持ち、2002年から勤めだした板金工場の社長は、正確な技術に目を見はったという。
ところが2008年夏、板金工場を突然退職。2011年春、別れた家族を道連れに無理心中を計画し、元妻宅で長男を包丁で大けがをさせた。元妻や次男も殺害しようとしたが長男に抵抗されたため逃げだし、逮捕されて、大阪地裁で懲役4年の実刑判決が言い渡された。判決では、Tは元妻に復縁を断られて競馬にのめり込み、生活がすさんだ。社会から孤立して自暴自棄になり、「誰かを殺せば死ねるのではないか」と無理心中を企てたと判示。弁護人は精神疾患の影響を指摘したが、裁判長は「被害者らを殺害し、自殺への踏ん切りをつけようと考えた」と断定した。
ある精神科医は「一人で死ぬのは嫌だとの思いを募らせ、他人を道連れにしようとする強い意志を感じる。将来を悲観した10年前の事件と重なる」と推察。一方、Tが犯行当時、所持金が1000円しかなかったことから、府警は経済的な苦境や社会的な孤立に絶望感を募らせ、大ぜいを巻き込む無理心中を図ったとの見方を強めている。
こうした無理心中事件としては、2015年、新横浜―小田原間を走行中の新幹線の車中で男性(71)がガソリンをかぶって焼身自殺し、乗客の女性が巻き込まれて死亡。19年の川崎市でスクールバスを待っていた児童20人が死傷した事件では、容疑者(51)は襲撃後現場で自殺した。
藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員は12月26日付毎日新聞「時代の風」欄で「無差別に危害を加える事件が頻発する世相」であると指摘。「加害者に共通するのは他者への共感性の欠如」としたうえで、クリニック殺人事件について、「無辜の被害者を炎の中に押し戻すほどの殺意は、共感性の欠如だけでは説明できない。そこにあるのは、他者への一方的憎悪。これらの加害者の心中には、その場にいたのが悪いという理不尽な他責の炎が燃え上がっていたように感ずる」という。

リワークプログラム中の事件

犠牲になった人たちに手向けられた花々

クリニック殺人事件のTが京アニ事件を模倣したとの報道があったことは既に述べた。京アニ事件の犯人は、京アニの募集に応募した小説が入選しなかったことに対する腹いせとみられており、いわば自己実現欲求不満事件である。Tがこうした欲求をもっていたという報道はこれまでのところ見られない。ではTはマズローの法則のどの欲求をもっていたのだろうか。
Tが経済的に困窮していたことは明らかであり、生理的欲求が満足される状態ではなかった。だが、今日のメシを食うためならクリニックの受け付けで現金を強奪しようとするだろう。経済的苦境から事件を起こした、との見方は誤っている。
通常、病院通いをするのは、何らかの疾患をかかえているためで、その病気を治したい、少なくともこれ以上悪化させたくないとの思いからであろう。言い換えるならば、自分の心身を可能な限り健全な状態に戻したいという欲求である。内科や外科の患者と同様に、心療内科の患者も心の病、あるいは心の傷をかかえている。Tがこのクリニックの診察券を持っていた以上、心療内科の患者であったことは明白だ。Tがどのような心の病、傷をかかえ、いつごろからクリニックに通いだしたかの報道はないが、心の安全面での欲求を持っていたことは確かである。
クリニックの患者たちの多くは院長を信頼していた様子が報道からうかがわれる。院長はTに対しても丁寧に治療しようとしたであろう。だが、Tが症状が改善しないことなどから院長に何らかの不満をもっていたことは当然あり得る。いかなる名医でも、全ての患者に満足させることは不可能だ。名医であればあるほど、期待を裏切られた思いから不信感をつのらせる患者はいるものなのだ。
実際、埼玉県ふじみ野市で1月27日、住人の男W宅で、訪れた医師(44)を人質に立てこもって散弾銃を発砲、医師を殺害する事件が起きた。医師は在宅医療に力を注いでおり、Wの母親の診療も担当していた。母親が死亡したことから、医師を恨んで犯行に及んだ可能性がある。
Tもふじみ野市事件の容疑者同様、医師を恨んでいたならば、診察の際に医師にのみ何らかの攻撃をすれば足りるはずだ。事件の態様からみると、Tは多くの患者を巻きこむつもりであったことは疑いの余地がなく、安全の欲求が満足されなかったことが大量殺人の動機になったとは思えない。
私が引っかかるのは、「リワークプログラム」が行われているときに事件が起きたことだ。毎週金曜日に行われていたもので、毎回15人ほどが机を囲んで悩みを共有しあい、特定のテーマについて議論し合ったという。事件の2カ月前から参加していた患者は「彼ら(参加者)のおかげで社会復帰できた」と語っているように、参加者たちの間で仲間意識が生まれ、心の支えになったようである。
職場や学校、地域や家庭から疎外されたおもいをもつ患者たちに安心してもらえる場として、院長はプログラムを企画したのであろう。患者にとって、プログラムへの参加は社会的欲求の一つであることは紛れもない。失われた社会参加の場ができ、患者たちの励みになったにちがいない。だが、ここから漏れる人、あるいはこうしたプログラムからすら疎外感をもつ人が出てくることは避けられない。Tがこのプログラムに参加していたかどうかは分からないが、このプログラムにかかわる欲求不満を持っていた可能性が大いにあったと思われる。
Tは高い板金技術をもち、社長から高く評価されていたにもかかわらず、ポイと工場を辞めている。彼は承認欲求を感じたことがないのかもしれない。ましてや自己実現欲求とは無縁な人生だったのであろう。
このように考察すると、社会的欲求が満たされないことが動機面で最も大きな要因であり、安全への欲求不満、生理的欲求への不満が付随して犯行に及んだと言えるようである。

排除の論理と包摂の論理

現場近くを行き来する通行人

事件は社会のある一面を映していると言っても過言ではない。2019年7月18日の、36人が死亡した京アニ放火殺人事件につづいて起きた今回のクリニック殺人事件。大量殺人がもはや希有なケースとはいえなくなったなかでの社会的欲求不満が25人を巻き添えにする大事件となった。自分が属している組織に不満のない人はほとんどいない。だが、一見なんでもないような不満の積み重ねが、まるで山のようにつみあげたマッチに火がついたように、何らかの要素が加わればとんでもなく暴発することもあるのだ。
では組織はどうあるべきなのであろうか。それを考える上で踏まえておかねばならないのは、排除の論理か包摂の論理かという点である。
学校の教室という35~45人程度の組織を頭に描くとわかりやすい。学校で決められた服装や持ち物などを守らない子、成績が悪くて平均点を下げる子、貧困家庭の子、逆に豪華な服を着ている子、恵まれ過ぎている子、外国から帰ってきた子、外国人の子?―など、そのクラスの規格に合わない子が必ずいる。子どもたちがその子をのけ者にする例は決して少なくない。
私は、だれかをのけ者にすることを「排除の論理」とよぶ。会社でも営業成績が悪い者、事務能力の劣る者、病気や子どもの保育などで欠勤の多い者などを、いやがらせ左遷をしたり退職を迫ったりするケースは珍しいことではない。経済優先社会の中、効率の良さだけが求められ、規格外を許さない排除の論理が当然化。AI化が進む中、一層排除の論理はまかり通るようになっている。子どもは大人社会を鏡のように見ている。学校現場にも伝染し、いじめが陰湿化した。
経済成長前の日本はもっとおおらかであった。学校でいえば、確かにいたずらっ子がいて、ケンカで泣かされる子はいっぱいいた。だがケンカが終わると、腕白坊主も泣き虫もいっしょに遊んだ。地域社会でも、子どもたちを分け隔てすることは余りなく、地区対抗の少年野球大会や運動会、駅伝大会などでは、地区をあげて盛り上がったものだ。もちろん、ヒーローやエースはもてはやされる。しかし下手な子、足の遅い子が参加を拒まれることはなかった。
私はこうしたおおらかさを「包摂の論理」と呼んでいる。規格外の者もそうでない者も隔てることなく、ともに抱きあっていこう、というものである。
こうしたおおらかさは1970年の大阪万博のころから薄れていったように思う。中学校も高校も進学実績を上げることに懸命になり、落ちこぼれをどんどんつくっていった。「排除の論理」が学校現場に深く浸透していったのである。
Tは万博の年は小学生だった。学校現場も排除の論理がまかり通りだしたころである。社会的欲求への不満が無意識のうちに、子ども心に暗い陰となっていたであろう。社会に出て、その思いが徐々に、しかし着実に積み上がったのだと推測できる。
この事件から得た教訓はただ一つである。学校で、社会で、そして地域で、家庭で、組織というものは排除ではなく包摂の論理で、やわらかくまとめていかなければならない、ということである。