『竜馬がゆく』の舞台の街並み
いっかいの剣術つかいだった坂本竜馬が倒幕の志士に変わったのはいつか。司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』(文春文庫)を読んでいて、興味深い記述にであった。竜馬が土佐に帰る途中、水原播磨之介と出会い、東海道を同行。播磨之介は内大臣三条実万に仕え、水戸の徳川家から三条家への密書を帯びて京にもどろうとしていた。幕府が反幕運動の封じ込めを強めるなか、播磨之介が水口宿で捕り方につかまったのを機に竜馬は天下というものを考えるようになる。もちろん小説の上での話だが、水口宿での出来事だけで14ページにおよんでいる。大長編『竜馬がゆく』のなかで、街道の宿場がこれほど長々と舞台になった例はほかにない。司馬は水口への強い思い入れがあったのだろうか。
宿場入り口の東見附
多くの書籍では龍馬と記されているが、本稿は『竜馬がゆく』を中心にすえる関係上、竜馬と表すことを断っておく。
播磨之介にかかわる一件を播磨之介事件としておこう。本稿は幕末史をテーマとしているわけではないが、播磨之介事件のころの幕末史の要点だけは整理しておきたい。
250年以上つづいた幕府の鎖国体制がペリーの来航によって崩れたのは嘉永6(1853)年。日米修好通商条約により、攘夷の機運が高まり、幕府非難の言動が公然と行われたことから、井伊大老は安政6年、「安政の大獄」と呼ばれる徹底弾圧にのりだす。翌年(万延元年)、井伊大老は桜田門外の変で水戸藩の脱藩者らによって暗殺される。
坂本竜馬(1836~1867)は嘉永6(1853)年、江戸に自費留学し、北辰一刀流の桶町千葉道場に入門。1カ月余り後、ペリーが浦賀に来航。竜馬も召集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務についた。15か月の修業の後土佐に帰国し、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵詞、河田小龍を訪ね、国際情勢を学び、河田から海運の重要性を聞いて感銘したという。さらに帰国中、砲術とオランダ語も学んだとされる。
江戸から土佐への帰国途中に播磨之介事件に遭遇した竜馬が天下を考えるようになったという司馬の小説は、史実に照らしてもあながち作り話と無視しきれない。
『竜馬がゆく』のなかで、竜馬が播磨之介と出会ったのは程ヶ谷宿の茶店。通常、保土ヶ谷宿と記される。日本橋から4番目の宿場である。藤沢宿の旅籠で播磨之介が公卿侍であることを知る。掛川宿あたりで彦根藩の侍らしいくせ者が播磨之介を狙っているのに気づく。「京に帰ったら幕府役人のために捕らえられるでしょう」と平然という播磨之介を、竜馬は立派な男だと見直す。
竜馬が江州水口宿に入ったときは、日もだいぶ傾いていた。
私は『竜馬がゆく』を片手に、時折雪が舞う正月あけの寒い日、水口宿跡に向かった。JR草津線の貴生川駅で近江鉄道の電車に乗り換えて二つ目、水口石橋駅で下車。駅近くの観光案内所で「水口宿絵図」というガイドマップをもらい、まっすぐ東見附跡に向かった。歩いて1時間足らず、住宅がきれたあたりに冠木門がり、そこが東見附跡とわかった。
冠木門の柱には「東海道水口宿」と書かれ、その奥に小さなほこらがたっている。説明板によると、東海道は野洲川の川原にそって通っていたが、慶長10(1605)年、山手になる現在地につけかえられた。天和2(1682)年、水口藩成立後、宿場は城下町にもなり、この東見附は土塀がめぐらされ、木戸や番所が設けられたという。
竜馬が水口宿に着く前、播磨之介は姿が見えなくなっていて、この番所にさしかかったとき播磨之介を守れないではないかと、竜馬は気をもんでいたはずだ。