宿場町シリーズ《東海道・水口宿 下》文・画 井上脩身

夏の風物詩のかんぴょう干し

宿場を貫く旧東海道

与力は宿場役人を案内人にして、竜馬がいる部屋の明かり障子を開ける。同心3人が部屋に踏み込み、竜馬の両腕をとろうとすると、竜馬は筆で「なんすれぞ、土佐守家来に無礼はするぞ」と大書きした。藩士に対して、奉行所役人は司法権をもってない。与力はその場を立ち去った。
そのとき、遠くでけたたましい呼子笛の音がきこえはじめた。竜馬は大刀を落とし差
しにし、笛の方に向かう。足軽町に出たところで、大小をとりあげられた播磨之介が捕吏の六尺棒にかこまれて、竜馬の前を通った。
「水口宿絵地図」には足軽町はない。地図の西の方(京より)に小坂町があり、その文字の下に(百間長屋)と、カッコつきでかき添えられている。ここで「水口宿絵地図」をもとに、水口の全体像を整理しておこう。
ほぼ中央に水口石橋駅があり、その東側は宿場、西側は城下町である。宿場は三つの通りで構成されており、東の合流点に高札場があることはすでに述べた。西の合流点に石橋があり、ここが京口である。石橋はすぐ駅の前に位置しており、からくり時計(写真左)が設置されている。本稿は宿場の東端の東見附から書き起こしているが、このからくり時計のあたりが、近江鉄道でやってきた宿場見物客にとっては宿場の入り口である。
駅の西側には東邸、丸の内、馬場先などの城下町をしのばせる地名がある。小坂町は東海道に沿って、城下町のほぼ中央に位置している。「水口宿絵地図」の裏に各町名の特徴が記されており、小坂町については「町内の南側に下級武士の百間長屋があった」としるされている。下級武士が足軽を意味するわけではないが、司馬のいう足軽町が百間長屋を指している可能性は高い。
私は旅籠町から小坂町に向かった。旅籠町の隣が葛籠町だ。司馬が「つづらが産物」と書いたツヅラである。江戸時代、山野で自生するツヅラフジを編んで細工物を作ったのが始まりといわれる。天保13(1842)年には宿場内に5軒の藤細工屋があり、4万個を製造、売上高は500両だったという。これらの藤細工屋は葛籠町に集中していたのだろう。現在も古い民家が軒を連ねるのどかなたたずまいである。
葛籠町の端に問屋場があったはずだが、その痕跡は見当たらなかった。問屋場は人馬の継ぎ立てと継ぎ飛脚という二つの業務を行う、宿場運営上最も重要なところ。旅籠内の竜馬がいる部屋に与力を案内した宿場役人は問屋場に常駐していたのであろう。旅籠に泊まる客に目を光らせるのも問屋場の隠れた業務だったのかもしれない。
近江鉄道の踏切をすぎて城下町にはいると、江戸時代風の木造の建物。「ひと・まち街道交流館」である。観光案内所兼休憩所だ。ここで「水口宿絵地図」をもらったことはすでにふれた。その時気づかなかったが、入り口の近くに安藤広重の浮世絵「東海道五十三次 水口」のコピーが掛かっていて、その絵が気になった。女性が何やら野良仕事をしている図である。絵の下に「夏、女たちはかんぴょうづくりに余念がない」と説明文がついている。正徳2(1712)年、上野(栃木県)から製法が導入され、改良を加えて水口の代表的な土産物になったもので、江戸時代、女性たちによるかんぴょう干しは水口の初夏の風物詩だった。司馬がかんぴょうに触れなかったのはなぜだろう。

下級武士が暮らす百間長屋

 

 

水口の城下町では東海道は凸字形に右左折を繰り返す構造になっている。築城や藩邸の拡張などのために街道が付け替えられたもので、城の都合が優先された。凸の字の上辺部に当たるところに「百間長屋」の跡がある。(写真右)百間(約180メートル)の棟割り長屋に下級武士たちが隣り合って住んでいたという。昭和初期まで長屋は残っていたが、現在は説明板が立っているだけだ。その説明板に「往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓という」との興味深い記述がある。竜馬に人物改めをしたのは与力だ。江戸時代以前、与力という用語は足軽大将など中級武士が上級武士の指揮下に入ることを意味していた。足軽町はこの百間長屋であったと断定できそうである。
竜馬は捕吏を切って播磨之介を解き放してやろうと思った。そのとき、播磨之介が「乱新者」と一喝し、「お役人衆、その者、狂人でござる」と言った。竜馬が捕まって、預けた密書が三条家に届かないことをおそれたためだ。
竜馬は捕吏に背を向けて歩く。百間長屋のすぐ近くに一里塚。水口宿に3カ所あった一里塚のうち一つだ。もとは野洲川沿いにあったという。現在の一里塚はモニュメントとして五十鈴神社のわきに設けられたもので、竜馬の時代はなかった。この約20メートル南の西見附があった。竜馬はここで水口宿と別れ、さらに夜道を3里歩いて石部宿まできたとき、月がおちた。
京に入り、三条家に密書を無事届ける。三条卿から「竜馬どのの勤王、殊勝である。こののちよろしく天朝に忠君をはげぬよう」との言葉があったという。
司馬は「坂本竜馬の名が、尊王の志士として京の公卿に記憶されたのはこのときからだろう」とかいている。 (完)