山城の国物語《第26代継体天皇 001》片山通夫

最初にお断りしておくが、歴史にとても疎い。言ってみれば、ずぶの素人だ。その素人が継体天皇に関して書こうとするのだから、これはもう「妄想」いや「暴走」の域。つまり素人の思い付き(?)エッセーだとお考えいただければ幸い。とにかく無責任。

謎に包まれた継体天皇

継体天皇の実態はどうも謎の部分が多いと言われている。如何に血筋が大王(天皇)家の遠戚だとしても遠すぎる。こんな言い方は誠に失礼だと思うが、琵琶湖の北方、今でいう高島の生まれで越前の国育ち。当時の都は明日香。明日香から西に一つヤマを越えれば難波津、そのまま船で進めば九州、そして当時の文化の中心だった朝鮮半島がそこに見える。きっと琵琶湖や越前はとんでもない片田舎だったのかもしれない。・・・と思いきや、とんでもない国だった。明日香、平城(奈良)をうかがうのに遠からず近からずと程よい距離を保ち、琵琶湖の水運を利用すれば大軍を運ぶことも可能である。おまけに出雲の国とは指呼の間。かの大国主が古志の国から妃・沼河比売(ぬなかわひめ、奴奈川姫)を娶ったと古事記に記載されている。実際は略奪かもしれない。

さて継体天皇だが、決して大王家の跡取りでほんわかとした人生を歩んできたようではない。そしておよそ九州から東征してきた神武天皇の直系だと言えない素性である。父・彦主人王(ひこうしのおう)と母・媛(ふるひめ)の間に生まれたと日本書紀などでは記載されている。勿論日本書紀では両親とも天皇家の血筋であるとしっかりと記載されているのは言うまでもない。しかし、しかしである。現代のようにDNA鑑定でも出来れば話は簡単だが、そんなわけにもゆかない。知性が武力といずれが必要かと言えばこの時代、武力が先だろう。つまり地域の王たらんとすれば、まず武力が必要だった。周りを力で押さえつけるのである。

ただ不思議なことに生まれたところが現在の滋賀県高島市という湖北と言われるところだ。幼くして父を亡くし、母が自身の出身地である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王(おほどのおおきみ)」として5世紀末の越前地方や東海地方を統治していたと言われている。言い方は悪いがいわば田舎の豪族だったわけである。
神代の時代、大国主が出雲から遠征し越から沼河比売神(ぬなかわひめのかみ)を娶ったというエピソードが載っている。つまり神代の時代から出雲と越は近いのである。さすれば大した田舎ともいえないかもしれない。何しろ出雲王朝の王が大国主なのだ。

謎に包まれた半世紀

地方の豪族然としていた男大迹王であるが、記紀が伝える男大迹王の記録は、出生から幼少の頃、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細にあるが、次の記録は57歳の頃になっており、その約50年間の男大迹王及び振媛の記録はない。男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江も行き来していたと思われる。つまり近江と越前を拠点にしていた。

その不明の半世紀だが筆者は朝鮮半島にも行き来していたのではないかと考えている。何しろ、越前の海や琵琶湖畔を行き来していたのだ。この時代はわが国との交流は実に盛んだったと見受ける。加耶からは鉄器、百済からは文字や仏教が伝えられた時代はこれより少し後の時代だった。
つまり継体天皇の前身・男大迹王がいつかは天下を取らんと百済などから様々な学問や技術などを積極的に学んだと考えても不思議ではない。
謎に包まれた半世紀は男大迹王の朝鮮遊学としたい。

思い起こせば高天原を追放されたスサノオは一旦新羅の国に降り立ったとも日本書紀に記載があった。その後出雲に渡ったとか…。出雲や越国は新羅や百済、加耶に近いのだった。日本書紀の「一書第4」では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後、八岐大蛇を退治した。また続く「一書第5」では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子や娘に命じて全国に植えさせたという。

このスサノオのエピソードを、帝王学としてかの国で学んだ男大迹王は「機を見て待つ」ことを学んだのだと思う。