山城の国物語《第26代継体天皇 002》片山通夫

継体天皇生誕の地・滋賀県高島市

継体天皇誕生

小泊瀬(おはつせの)天皇(武烈天皇)は、若い頃恋に破れてひどい女性不信に陥り、女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、女を裸にして馬と交尾させたり、そのため一生を独身で過ごすはめになり、当然一子ももうけることがなかった。即位から8年で武烈天皇は崩御し、その事で大和朝廷には一大事件が発生する。即ち、世継ぎがいないため王朝断絶の危機に陥ったのである。
重臣達は合議を開き、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)は、丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)にいる足仲彦(たらしなかつひこ:仲哀)天皇五世の孫である倭彦王(やまとひこのおほきみ)を迎えて皇位につかせようとしたが、王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまう。
そこで金村は物部鹿鹿火(もののべのあらかひ)大連、許勢男人(こせのおびと)大臣らと協議して、今度は越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる誉田(ほむだの:応神)天皇五世の孫である男大迹(おおど)王(後の継体天皇)を迎える事にした。

男大迹王は、応神天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)王の子で、母振媛(ふりひめ)は垂仁天皇の七世の孫であったという。振媛は近江の国高島郡三尾の出身である。琵琶湖西岸の中央部に位置し安曇川によって開けた平野部が故郷であった。この振媛を迎えて妻にしたのが、越前の国三国の坂中井(さかない)の彦主人王である。男大迹王が生まれてすぐに彦主人王は崩かったので、振媛は子を連れて高向(たかむこ)に隠棲する事になった。男大迹王は、大伴金村らが皇位継承の要請に来るまでここに住み、既に57歳になっており多くの妃、子達に囲まれて暮らしていた。ちなみに、越前の国三国の坂中井は、九龍川の下流域に位置し交通の要所であった。「国造本紀」によればここに三国国造が置かれ、蘇我氏一族の若長足尼(わかながのすくね)がその任にあたっていた。蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭してくる豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。継体天皇出身越前説に少し信憑性が増すと考えられる。
男大迹王ははじめ皇位継承の要請をなかなか受け入れなかったので、金村らは北河内一帯を基盤とする、王の知人河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を説得役に越前へ使わし、ようやく王もこれを聞き入れ、やがて507年2月4日に樟葉宮(くずはのみや:現大阪府枚方市楠葉)で即位した。ところが、男大迹王は即位して直ちに大和で政治を行ったかというとそうではない。5年間樟葉で過ごした後、都を山背国の筒城(つつき:現京都府京田辺市)に移し、更に6年後には同じく山背国の弟国(乙訓:おとくに:現大阪府高槻市から京都府長岡京市にかけてのあたり)に遷都する。更に8年たって、ようやく大和の国磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)に入るのである。(以上日本書紀)

継体天皇は樟葉宮で即位してから5年間樟葉宮にいたという。その後も山背国筒城に遷都、さらに山背国弟国に8年、その後ヤマトに登ったとある。
ここで継体天皇は「待つ」ということをした。機を見ていたのかもしれない。ヤマトには「越廼国」に詳しい人物は少なかった。つまり継体天皇の理解者が少なかった。理解者が少ないということはいつ寝首をかかれるかわからない。十分注意したことだろう。

余談だが樟葉宮や山背国は今でいう淀川や木津川に近い。湖北に生まれ越廼国越前という海辺で育った継体天皇にとってこれらの河川はなじめる場所だった。