連載コラム・日本の島できごと事典その60《島嶼町村制》渡辺幸重

当初、普通町村制が適用されなかった地域

明治維新後、日本政府は急速に近代的な行政組織を整備します。1871年(明治4年)の廃藩置県は有名ですが、市町村レベルでは1878年(明治11年)に郡区町村編制法(地方三新法のひとつ)が制定され、そして現在につながる地方行政改革が1888年(明治21年)の市制・町村制、1890年(明治23年)の府県制・郡制の制定によって行われました。市制・町村制は1889年(明治22年)に施行され、同年中に北海道・香川県・沖縄県を除く44府県(東京は東京府)で、翌年2月には香川県で施行されました。しかし、北海道・沖縄県の全域と東京府・鳥取県・島根県・香川県・長崎県・熊本県・鹿児島県の一部島嶼地域には長い間、この普通市制・普通町村制は適用されませんでした。
隠岐諸島では1904年(明治37年)5月1日に施行された「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」(明治37年勅令第63号)により町村制に準ずる町村が発足しました。さらに、1908年(同41年)4月1日に「沖縄県及島嶼町村制」(明治40年勅令第46号)が施行され、青ヶ島・八丈小島を除く伊豆諸島、小笠原諸島、対馬、トカラ列島、奄美群島および沖縄県全域が対象とされました。実際に施行された時期は地域の事情によって異なり、伊豆諸島の大島、対馬、上三島・トカラ列島(旧十島村(じゅっとうそん))、奄美群島、沖縄県全域では1908年(同41年)4月1日に施行、同年のうちに伊豆諸島の八丈島で、1923年(大正12年)10月1日に伊豆諸島の利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島での施行となりました。1921年(同10年)5月20日になって沖縄県全域が普通町村制に移行して「沖縄県及島嶼町村制」から離脱。その前年に勅令により制度の名称が「島嶼町村制」に変わっています。
島嶼町村制施行により、各地域には普通町村制よりも権限が小さい町村が生まれることになりました。奄美大島には名瀬村・笠利村・龍郷村・大和村(やまとそん)・住用村(すみようそん)・焼内村(やきうちそん)・東方村(ひがしかたそん)・鎮西村(ちんぜいそん)の8村が成立しました。それが現在は奄美市・龍郷町・瀬戸内町・大和村・宇検村(うけんそん)の1市2町2村体制になっています。上三島・トカラ列島は十島村になりましたが、このとき徴兵制は実施されたものの国会議員の選挙権や県議の選挙権・被選挙権などは認められませんでした。
普通町村制への移行は、対馬が1919年(大正8年)4月1日 、奄美群島、上三島・トカラ列島が沖縄県全域と同じ1921年(同10年)5月20日、伊豆諸島は1940年(昭和15年)4月1日に実施されました。ただし、伊豆諸島の青ヶ島、小笠原諸島の父島・母島・硫黄島は島嶼町村制の適用がないまま、伊豆諸島の他の島と同時に普通町村制が施行されました。八丈小島だけは島嶼町村制も普通町村制の適用もなく、第二次世界大戦後の1947年(同22年)10月の地方自治法施行によって宇津木村・鳥打村(とりうちむら)の2村が生まれるまで名主制が続きました。

連載コラム・日本の島できごと事典その59《近藤富蔵》渡辺幸重

『八丈実記』に描かれた流人船

近藤富蔵(1805~87)は、幕末に数回にわたって北海道(蝦夷)・千島方面を探検したことで有名な近藤重蔵の長男で、後半生のほとんどを流人として八丈島で暮らした人です。八丈島での見聞をまとめた膨大な地誌『八丈実記』72巻(清書69巻)は島にある基本的な史料をほとんどあます所なく収録しているとして現代に至るまで高い評価を受けており、柳田國男からは「日本における民俗学者の草分け」と言われました。
富蔵は若い頃は乱暴な性格だったようで、父親の別荘がある江戸三田村の土地の管理を任されたものの境界争いなどで隣家の7人を殺害し(鎗ヶ崎事件)、1827年(文政10年)に伊豆諸島・八丈島に流刑となりました。島では罪を悔いて熱心な仏教徒となり、シラミも殺さなかったと伝えられます。島民の仕事を手伝う傍ら文才を生かして旧家の系図を整え、歴史・伝説を記録したり、英語の入門書を書いたり、寺子屋で読み書きの指導をしたりしました。島の有力者の娘と一緒になり、1男2女をもうけています。1880年(明治13年)に明治政府によって赦免され、53年間の流人生活を終え、島を出て親戚への挨拶回りや墓参、西国巡礼をしたあと、2年後にはまた八丈島に戻って観音堂の堂守として暮らし、1887年(明治20年)に島で83歳の生涯を閉じました。
富蔵は1848年(嘉永元年)春に稿を起し、1855年(安政2年)に資料を主とした『八丈実記拠』28巻を完成させました。続いて1861年(文久元年)に『八丈実記』草稿72巻を書き上げ、さらに翌年にそれを『八丈実記略』1巻にまとめています。これらの著作はその後も絶えず書入れや記事の訂正・加除を行い、命のある限り精力的に島での見聞を筆記し、著作のさらなる完成を目指したようです。『八丈実記』の目次を<一海道、二名義、三地理、四土産、五沿革、六貢税、七船舶、八海嶋>と書き残していますが、実際にはそうなっていないので富蔵にとっては未完のままなのかもしれません。
1887年(明治20年)、富蔵死去後に東京府は借用していた『八丈実記』『八丈実記拠』『八丈実記略』や古文書・記録類など69冊のうち29冊を買い上げ、残り40冊を八丈島地役人に返還しました(東京府の記録に「70冊のうち30冊を買収」との表記も)。東京府はこの29冊を36冊に再編し、『八丈実記』としました。これが、のちに東京都有形文化財に指定されたものです。八丈島・長戸路家蔵の『八丈実記』もあり、その抄録が『日本庶民生活史料集成』一に収載されています。八丈実記刊行会は東京府のものを編成替して1964年から1976年にかけて緑地社から『八丈実記』を7巻本として刊行し、緑地社社長の小林秀雄がその功績により菊池寛賞を受賞しています。
冒頭で<『八丈実記』72巻(清書69巻)>と書きましたが、72巻というのは草稿全体を指しているようです。実際には東京府が返却した40冊の内容もよくわかっておらず、私たちが見ているのは東京府が買い上げた29冊分ということのようです。
図:『八丈実記』に描かれた流人船
(東京都公文書館  https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm )

連載コラム・日本の島できごと事典その58《世界5大猫スポット》渡辺幸重

相島の猫・コムギ(中日新聞ブログ「猫さんを探して」より

九州・福岡湾北方の玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)はいわゆる“猫の島”で、アメリカのニュース専門局・CNNが2013年に「世界5大猫スポット」の一つとして紹介して有名になりました。ところが「世界6大猫スポット」という説明も見られるので調べてみました。
CNNのWebサイトのタイトルは“5 places where cats outshine tourist attractions”(猫が観光名所を凌駕する5つの場所)で5ヶ所です。その2番目に“Japan’s cat islands”とあり、宮城県の田代島(たしろじま)と福岡県の相島の2島が挙げられています。「日本の猫島」の代表がこの2島ということかもしれません。ちなみに他の場所は「ローマのラルゴ・アルジェンティーナ広場」「トルコのリゾート地・カルカン」「台湾の侯?(ホウトン)」「米・フロリダ州のヘミングウェイ博物館」です。海外のWebサイトで同じ内容を“6 places where cats outshine tourist attractions”とするものがあるので、田代島と相島を独立させて「世界6大猫スポット」としても間違いではなさそうです。
相島が猫の島として世界的に有名になり、猫目当ての観光客が増えるとネットの書き込みに「猫が痩せていてかわいそう」「目ヤニが出たり病気になっている猫がいる」など猫の環境を問題にする声が増えました。実は、相島の猫は野性の猫として生きており、ケンカで傷だらけになったり、飢えてやせ細ったり、冬を越せなくて死んだりする現象は、自然の猫社会の生存競争の中では普通のことのようなので「かわいそう」という人間の感覚だけで言うのは微妙なところです。評判を気にした新宮町役場は公式ページで「相島の人と猫の共存について、それぞれにとって良い方法を検討しています」とし、「野生の猫」の表記を「飼い主のいない猫」に改めました(2019年7月)。猫の増加も原因の一つなので野良猫の無料不妊手術なども行っています。
さて、相島の猫がテレビ番組の主役になったことがあります。NHK「ダーウィンが来た!」に2016年11月にメスの白猫「ミュウ」、2017年11月にその子どもでオスの茶トラ猫「コムギ」、2019年7月にその姉の女王ネコ「コガネ」が主人公として出演し、ネコの野生動物としての生態が紹介されました。特にコムギは、子殺しさえするオス猫から我が子を守る行動を取り、オス猫は子育てに一切関わらないというそれまでの常識を覆しました。この発見は世界初ではないかと話題になりましたが、“野生猫の島”ならではの出来事と言えるでしょう。

 

連載コラム・日本の島できごと事典その57《10・10空襲》渡辺幸重

空襲で破壊された旧那覇市街地(沖縄県公文書館https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4725

第二次世界大戦末期の1944年(昭和20年)10月10日、沖縄島をはじめ先島諸島から大東諸島、奄美群島までの全域を、米軍第三機動部隊空母から発進した艦載機のべ1,396機が襲い、爆弾や焼夷弾を投下しました。これを「10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」と呼びます。特に、那覇港・旧那覇市街は第一次攻撃から第五次攻撃まで9時間にわたる波状攻撃を受け、旧那覇市街地は翌日まで続いた火災で約9割を焼失し、死者255人という犠牲を出しました。これは「那覇空襲」とも呼ばれます。沖縄島全体では330人が死亡し、455人が負傷しました。陸海軍3万余が展開していた宮古島は16機の米軍機によって2回にわたる空襲を受け、民家13軒が半焼。慶良間諸島では米軍機のべ60機が8回にわたり漁船などを機銃掃射で攻撃しました。瀬底島に停泊していた日本軍の潜水母艦は沈没、伊是名島も空襲を受け、平安座島(へんざじま)では200隻以上の山原船を焼失。大東諸島では飛行場や海軍船が銃爆撃され、海軍徴用小型船2隻が沈没、沖大東島付近では日本軍の特設掃海艇が炎上しています。日本の航空部隊は多くが地上撃破され、米軍は21機の航空機を失っただけでしたが、日本側は全体で死者668人を含む約1500人の死傷者を出し、停泊中の艦船がほとんど全滅状態になるなど甚大な被害を被りました。
このとき米軍は太平洋の島々を撃破してきて次はフィリピンへ進攻しようとしていました。10・10空襲のねらいの一つはフィリピンの日本軍を支援する南西諸島・台湾方面の日本軍基地を進攻前に破壊することであり、もう一つは「アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)」用の地図を作るために必要な写真を撮影することだったといわれています。後に日本政府は那覇無差別爆撃は国際法違反だとして抗議したそうですが、街を焼き尽くす絨毯爆撃は明らかに国際法違反です。
10・10空襲のあと、米軍の空襲は激しさを増し、南西諸島を北上して九州から北海道に至るまで多くの主要都市が無差別爆撃を受けました。10・10空襲はその始まりであり、悲惨極まりない沖縄での地上戦を予告するものでもあったのです。

連載コラム・日本の島できごと事典その56《散骨島》渡辺幸重

カズラ島(「自然散骨カズラ島」

60過ぎたら死を考えろ」という言葉を何かで見た記憶があり、歳を取ると「墓はどうしようか」「葬式は」などと考えるようになりますが、遺書に残すとしても「さてその内容は」となるとなかなか決められません。私は海が好きなので海に散骨する海洋葬がいいと思いましたが、家族に手間をかけそうです。森を守る運動をやってきたので樹木葬もいいし、合同墓はもっとも簡単かもしれません。そういうとき、島根県の隠岐諸島に日本で唯一の「散骨島」があることを知りました。

 カズラ島は島前・中ノ島の北部海岸に近く、島前湾の東入口に浮かぶ無人島です。面積約1.4㏊の小さな島ですが、大山(だいせん)隠岐国立公園内にあり、一切の建築物・構築物が認められない第一種特別地域に指定されています。2008(平成20)、首都圏の葬儀会社などが出資する民間葬祭業者が島を買い取り、島内に自然散骨所を設けました。対岸に献花・献酒・献水などのお別れの儀や命日の法要などを執り行う慰霊施設を整備し、5月と9月の年2回、渡島して散骨・慰霊式を行っています。自然環境を心配する声に対して、業者は「遺灰は無害なリン酸カルシウムが主成分なので比較的早く分解されて土に還るので、環境にはまったく問題ない」と答えています。それでも環境保全や風評に配慮する形で散骨粒形や量の自主規制を行い、島を10のブロックに分けて毎年散骨場所を変えるそうです。国立公園内なので開発される心配もなく、死者は豊かな自然の中で永遠の平安を得るということなのでしょう。

 実は、日本では各地に「お墓の島」があります。沖縄島の羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ奥武(おう)島は対岸の沖縄島の3地区の墓の島で、亀甲墓や横穴式の墓など新旧入れ混じったさまざまな墓地がみられます。死者のための島として墓参に訪れる以外は渡島が禁じられています。同じ羽地内海にはヤガンナ島やジャルマ島という墓の島もあります。北九州市の筑前諸島では貝島に6世紀に造られた13基の古墳があり、干潮時につながる藍島の墓場だったとみられています。九州・大村湾の南西部に浮かぶ前島も古代人の集団墓地と考えられる“古墳の島”です。また、かつて炭鉱の島だった長崎市の中ノ島は1893年(明治26年)に閉山したあと軍艦島として有名な端島の火葬場・墓地として利用されました。そう考えると散骨島としてのカズラ島は現代風の「お墓の島」かもしれません。

連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重

放置され、野生化した猫や犬を「野良猫」「野良犬」と呼びますが、沖縄県の先島(さきしま)諸島には「野良クジャク」が棲んでいます。本来はインドやスリランカなどに生息するインドクジャクで、これまでに石垣島、小浜島、黒島、新城上地(あらぐすくかみじ)島、与那国島、宮古島、伊良部島で生息が確認されています。雑食性で植物やは虫類、昆虫類などを食べ、生態系への被害が懸念されることから環境省の「生態系被害防止外来種」に指定され、駆除活動が行われています。大根や芋、ほうれん草など農作物への被害も報告されています。 “連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重” の続きを読む