連載コラム・日本の島できごと事典その57《10・10空襲》渡辺幸重

空襲で破壊された旧那覇市街地(沖縄県公文書館https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4725

第二次世界大戦末期の1944年(昭和20年)10月10日、沖縄島をはじめ先島諸島から大東諸島、奄美群島までの全域を、米軍第三機動部隊空母から発進した艦載機のべ1,396機が襲い、爆弾や焼夷弾を投下しました。これを「10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」と呼びます。特に、那覇港・旧那覇市街は第一次攻撃から第五次攻撃まで9時間にわたる波状攻撃を受け、旧那覇市街地は翌日まで続いた火災で約9割を焼失し、死者255人という犠牲を出しました。これは「那覇空襲」とも呼ばれます。沖縄島全体では330人が死亡し、455人が負傷しました。陸海軍3万余が展開していた宮古島は16機の米軍機によって2回にわたる空襲を受け、民家13軒が半焼。慶良間諸島では米軍機のべ60機が8回にわたり漁船などを機銃掃射で攻撃しました。瀬底島に停泊していた日本軍の潜水母艦は沈没、伊是名島も空襲を受け、平安座島(へんざじま)では200隻以上の山原船を焼失。大東諸島では飛行場や海軍船が銃爆撃され、海軍徴用小型船2隻が沈没、沖大東島付近では日本軍の特設掃海艇が炎上しています。日本の航空部隊は多くが地上撃破され、米軍は21機の航空機を失っただけでしたが、日本側は全体で死者668人を含む約1500人の死傷者を出し、停泊中の艦船がほとんど全滅状態になるなど甚大な被害を被りました。
このとき米軍は太平洋の島々を撃破してきて次はフィリピンへ進攻しようとしていました。10・10空襲のねらいの一つはフィリピンの日本軍を支援する南西諸島・台湾方面の日本軍基地を進攻前に破壊することであり、もう一つは「アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)」用の地図を作るために必要な写真を撮影することだったといわれています。後に日本政府は那覇無差別爆撃は国際法違反だとして抗議したそうですが、街を焼き尽くす絨毯爆撃は明らかに国際法違反です。
10・10空襲のあと、米軍の空襲は激しさを増し、南西諸島を北上して九州から北海道に至るまで多くの主要都市が無差別爆撃を受けました。10・10空襲はその始まりであり、悲惨極まりない沖縄での地上戦を予告するものでもあったのです。