連載コラム・日本の島できごと事典その59《近藤富蔵》渡辺幸重

『八丈実記』に描かれた流人船

近藤富蔵(1805~87)は、幕末に数回にわたって北海道(蝦夷)・千島方面を探検したことで有名な近藤重蔵の長男で、後半生のほとんどを流人として八丈島で暮らした人です。八丈島での見聞をまとめた膨大な地誌『八丈実記』72巻(清書69巻)は島にある基本的な史料をほとんどあます所なく収録しているとして現代に至るまで高い評価を受けており、柳田國男からは「日本における民俗学者の草分け」と言われました。
富蔵は若い頃は乱暴な性格だったようで、父親の別荘がある江戸三田村の土地の管理を任されたものの境界争いなどで隣家の7人を殺害し(鎗ヶ崎事件)、1827年(文政10年)に伊豆諸島・八丈島に流刑となりました。島では罪を悔いて熱心な仏教徒となり、シラミも殺さなかったと伝えられます。島民の仕事を手伝う傍ら文才を生かして旧家の系図を整え、歴史・伝説を記録したり、英語の入門書を書いたり、寺子屋で読み書きの指導をしたりしました。島の有力者の娘と一緒になり、1男2女をもうけています。1880年(明治13年)に明治政府によって赦免され、53年間の流人生活を終え、島を出て親戚への挨拶回りや墓参、西国巡礼をしたあと、2年後にはまた八丈島に戻って観音堂の堂守として暮らし、1887年(明治20年)に島で83歳の生涯を閉じました。
富蔵は1848年(嘉永元年)春に稿を起し、1855年(安政2年)に資料を主とした『八丈実記拠』28巻を完成させました。続いて1861年(文久元年)に『八丈実記』草稿72巻を書き上げ、さらに翌年にそれを『八丈実記略』1巻にまとめています。これらの著作はその後も絶えず書入れや記事の訂正・加除を行い、命のある限り精力的に島での見聞を筆記し、著作のさらなる完成を目指したようです。『八丈実記』の目次を<一海道、二名義、三地理、四土産、五沿革、六貢税、七船舶、八海嶋>と書き残していますが、実際にはそうなっていないので富蔵にとっては未完のままなのかもしれません。
1887年(明治20年)、富蔵死去後に東京府は借用していた『八丈実記』『八丈実記拠』『八丈実記略』や古文書・記録類など69冊のうち29冊を買い上げ、残り40冊を八丈島地役人に返還しました(東京府の記録に「70冊のうち30冊を買収」との表記も)。東京府はこの29冊を36冊に再編し、『八丈実記』としました。これが、のちに東京都有形文化財に指定されたものです。八丈島・長戸路家蔵の『八丈実記』もあり、その抄録が『日本庶民生活史料集成』一に収載されています。八丈実記刊行会は東京府のものを編成替して1964年から1976年にかけて緑地社から『八丈実記』を7巻本として刊行し、緑地社社長の小林秀雄がその功績により菊池寛賞を受賞しています。
冒頭で<『八丈実記』72巻(清書69巻)>と書きましたが、72巻というのは草稿全体を指しているようです。実際には東京府が返却した40冊の内容もよくわかっておらず、私たちが見ているのは東京府が買い上げた29冊分ということのようです。
図:『八丈実記』に描かれた流人船
(東京都公文書館  https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm )