連載コラム・日本の島できごと事典その63《国宝の島》渡辺幸重

源義経が奉納した鎧(国宝)https://oomishimagu.jp/national-treasure/

 本州と四国を結ぶ三つのルートのうちもっとも東にあるのが広島県と愛媛県を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」です。その中ほどのもっとも大きな島が「国宝の島」「神の島」と呼ばれる大三島(おおみしま)になります。大三島には海・山の守護神として尊崇される大山祇(おおやまづみ)神社があり、国宝や重要文化財を多数収蔵しています。特に、武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀剣などの武具類は小物類を含めると数万点に上るといわれ、甲冑(かっちゅう)類については全国の国宝・重要文化財の約4割を有しています。

 国宝は8件あり、内訳は鎧4件・大太刀2件・太刀拵1件・禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)1件で、「工芸品」として指定されています。鎧には、瀬戸内の合戦で勝利した源義経奉納の「赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)」、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」、日本の大鎧としては最古の「沢瀉(おもだか)威鎧」などがあります。義経の鎧は別名「八艘飛びの鎧」とも呼ばれ、平家物語絵巻にも登場します。また、禽獣葡萄鏡は斉明天皇の奉納と伝えられます。大三島には、国指定の文化財が国宝・重要文化財・天然記念物合わせて85件あります。重要文化財は、大山祇神社の本殿と拝殿が「建造物」として、1543年の大三島の戦いで討死(自害)したとされる大祝安用(おおほうりやすもち)の息女・鶴姫の「紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)」や木曽義仲の鎧「熏紫韋威胴丸(あいかわおどしかたこししろどうまる)」など68点が「工芸品」として指定されています。また、「大山祇神社のクスノキ群」の1件が国指定天然記念物になっています。

 大三島の文化財の数は資料によって異なるので混乱しますが、今治市教育委員会生涯学習課に確認したのが上記のデータになります。たとえば、「武具では全国の国宝・重要文化財の約8割を収蔵」という数値を複数の資料で見ましたが、今治市教委によると、その根拠は「1919年(大正8年)113日の東京国民新聞に『帝国第一の古物館』と題して寄稿した志賀重昻が『特に兵器類の国宝に至っては日本全国の国宝の八割強を占め云々』と紹介した」ことだそうで、その後1950年(昭和25年)の文化財保護法改正で国宝の区分けが国宝と重要文化財に変更されて再指定があったことや指定文化財の数が増加したため、今では「甲冑類について全国の国宝・重要文化財の約4割を有している」が正しい表記ということでした。国の重要文化財の数も「132件」「76件」「469点」などがありました。それぞれ何らかの根拠があるのかも知れませんが、数字を孫引きするときには十分な注意が必要です。

Lapizからのお知らせ

Lapiz2022年夏号は6月1日から掲載いたします。
お楽しみに!

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。

<沖縄の日本復帰50周年>《「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」の意味》渡辺 幸重

今年の5月15日で沖縄は日本復帰50周年を迎えました。この日を前に玉城デニー・沖縄県知事は5月10日、日米両政府に対して「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を手渡しました。内容は、復帰前に沖縄県民が望んだ「沖縄を平和の島とする」ことが実現されていないことから、あらためて「基地のない平和な島」が沖縄県と日本政府の共通の目標であることを確認し、米軍普天間飛行場の速やかな運用停止や名護市辺野古の新基地建設断念、日米地位協定の改定などを求めるものです。では、なぜこれが「新たな建議書」なのでしょうか。実は、50年前にも沖縄から日本政府と国会に向けて建議書が出されているからです。 “<沖縄の日本復帰50周年>《「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」の意味》渡辺 幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典その62《青ヶ島還住》渡辺幸重

名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)https://www.nihon-kankou.or.jp/tokyo/134023/detail/13402af2172051936

 「人はなぜ島に住むのか」は永遠のテーマです。人は災害や疫病、経済的理由などで島を離れても生まれ育った故郷に帰ろうとします。それはなぜでしょうか。それを考えさせる出来事の一つが、伊豆諸島・青ヶ島の〝還住〟の歴史です。

 青ヶ島は八丈島の南約64kmにあります。気象庁が火山活動度ランクCの活火山に指定する二重式カルデラ火山の島で、古くからたびたび噴火(山焼け)を起こしてきました。1785(天明5)年の大噴火では全家屋63戸を焼失し、事前に島を出ていた者を含めて202(他に流人1人)が救出されましたが、救助船に乗れなかった130人余りが島に取り残されて犠牲になりました。

 八丈島に逃れた青ヶ島島民は島の「復興(起し返し)計画」を立て、実行に移しました。まず1793(寛政5)年に強健な男性12人を青ヶ島に送り込むことに成功し、復興事業に取りかかりました。しかし、島では大繁殖したネズミによる被害を受けるなどの苦難が続いた上に八丈島からの支援も思うようにできませんでした。1794(同6)年には3回八丈島から物資を送ろうとしたものの1回しか成功せず、その船も帰路途中で遭難し、乗組員全員死亡という犠牲が出ています。1797(同9)年には名主・三九郎らを乗せた船が暴風にあって紀州(和歌山県)に漂着。乗船者14人のうち名主を含む11人が死亡しました。1799(11)年には三九郎の遺志を継いで穀類を積んで出航した船がまた暴風にあって紀州に漂泊しました。このときは乗組員のうち32人が八丈島に戻っています。結局1795(7)4月に1回成功したあとは八丈島から青ヶ島に渡った船は1艘もなく、青ヶ島で復興にあたっていた7人は1801(享和元)年に八丈島に戻ったのでした。1817(文化14)年、名主になった佐々木次郎太夫が綿密な帰島・復興計画を立ててからは順調に進むようになり、その結果、1824(文政7)年に多くの島民が帰島し、1834(天保5)年には島民全員が故郷の青ヶ島に帰り着くことができました。翌年に検地が実施され、青ヶ島は1785(天明5)年の大惨事から約50年の歳月を経て復興を成し遂げたのです。

 この経緯は近藤富蔵の『八丈実記』に記され、民俗学者・柳田國男は『青ヶ島還住記』として著し、名主・次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と讃えています。さて、たとえ〝不毛の地〟と言われようとも故郷の島に帰ろうとする心情を私たちは理解できるでしょうか。

写真:名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)

 

連載コラム・日本の島できごと事典その61《北海道二級町村制》渡辺幸重

1888年建設の北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)=2014年9月撮影

 明治の近代化が進み、全国的には1888年(明治21年)に(普通)市制・(普通)町村制が定められ、翌年に施行されましたが、北海道・樺太と沖縄県の全域および伊豆諸島・小笠原諸島、隠岐、対馬、奄美群島・トカラ列島には適用されませんでした。北海道の場合、井上馨内務大臣が自治財政を負担できる町村とできない町村に分けるべきと主張、1897年(明治30年)に勅令によって北海道区制・北海道一級町村制・北海道二級町村制が制定され、1899年(同32年)101日に施行されました。すなわち、この年に札幌・函館・小樽に北海道区制が、翌年には106村に北海道一級町村制が、1902年(同35年)には62町村に北海道二級町村制が実施されたのです。1922年(大正11年)には札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路の6区で区制から市制に変わり、1943年(昭和18)年には北海道一級町村・二級町村制が廃止されました。しかし、二級町村はほとんど内容が同じ内務大臣の「指定町村」に変わっただけで、それが第二次世界大戦後の1946年(同21年)まで続きました。人口や資力、将来発展の予測などが町村制の基準になっており、当初は二級町村にも至らないということで旧制度の戸長役場のままのところもあったようです。

 北海道一級町村制・北海道二級町村制は普通町村制に準ずるとされ、一級町村制の指定を受けた町村では町村長・助役を町村会を選挙で選ぶ(北海道庁長官が認可)ことができますが、二級町村制の町村は、町村長は北海道庁長官の任命制で、住民は選ぶことができず、国政選挙に参加する公民権も与えられませんでした。議会も一級町村は条例制定ができますが二級町村の議会はできませんでした。

 ちなみに奥尻島の経過をみると、1869年(明治2年)8月15日に奥尻島全体が「後志国奥尻郡」となり、1879年(明治12年)7月15日に戸長役場が置かれ、1906年(明治39年)4月1日に北海道二級町村制が施行されて戸長役場を奥尻村役場と改称、1943年(昭和18年)に指定町村になったあと、1966年(昭和41年)に現在の「奥尻町」になっています。

 第二次世界大戦前の日本の自治体制度をみると、全国でばらばらに進んでいますが、なぜでしょうか。歴史にはすべて原因があり、経過があります。私たちは歴史を「結果」の羅列として受けとめがちですが、原因まで考えることが現在にも繋がる問題を解決することにつながります。北海道二級町村制にしても、政府は徴兵と納税を目的として制度を整備したのでしょうが、住民の側からみると選挙制度や自治制度などに差別と格差が生じています。いまだに差別や格差が残っていないか歴史から学ぶ気持ちを持ちたいと思います。