22年夏号Vol.42 原発を考える《「黒い雨訴訟」に見る原発の問題点》井上脩身

『私が原発を止めた理由』の表紙

2014年5月、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを、福井地裁の裁判長として命じた樋口英明氏の活動を追った映画が今秋上映される。題は「原発をとめた裁判長そして原発をとめた農家たち」。樋口氏を中心に福島県二本松市の営農家らの活動を通し、原発の危険性を告発する映画となるようである。その主人公の樋口氏については、ラピスでも著書『私が原発を止めた理由』を取り上げ、我が国の原発が過去の地震の大きさに対応する対策がなされていないことを明らかにした裁判官であると紹介してきた。樋口氏についての映画企画が浮上したのを機に、私は改めて同書を読み返した。樋口氏が放射能被ばくの観点から「黒い雨訴訟」を注目していることに気付かされた。本稿では、同訴訟を通して、原発の問題点を考えたい。

原発と原爆は表と裏

樋口氏が裁判長として差し止めを命じた大飯原発4号機 (ウィキベテアより)

私が樋口氏に関する映画企画があることを知ったのは4月12日付毎日新聞の記事によってである。「そこが聞きたい 原発の危険性と司法」のタイトルで、記者が樋口氏をインタビューしてまとめている。樋口氏は大飯原発の再稼働を認めなかった理由について、「3・11までのわずか6年(2005年~2011年)の間に、原発の基準値震動を超える地震が4カ所の原発の敷地で5回も起きており、大飯原発敷地に限って大きな地震が来ないとの予知は不可能との結論に至った」と述べ、「(判決文は)憲法の人格権を踏まえた内容で、保守にも革新にも納得してもらえるよう考え抜いて文章にした」と振り返った。そして「東電の福島事故では東日本壊滅が目前であったことを忘れてはならない」と警鐘を鳴らし、現職の裁判官には「憲法の命じるところに従い、人々の命と生活を守ることに専念してほしい」と求めた。
基準値震動は安全確認の基準となる地震の揺れの強さをガルという単位で示すもので、我が国の原発の基準値震動は600~1000ガル程度。しかし岩手・宮城内陸地震(2008年)では4022ガル、東日本大震災では2933ガルを記録しており、実態にそった基準値震動とはいえないことを樋口氏は大飯原発訴訟の判決で指摘した。『私が原発を止めた理由』の中でその内容を詳細に説明。私はラピスの「原発を考える」シリーズの中で取り上げ、原発の耐震性について大いに疑念があることを詳述した。
今回のインタビュー記事の中で、基本的には従来からの主張を樋口氏は展開しているが、私が注目したのは福島原発事故によって東日本が壊滅目前であったことを強調している点だ。壊滅目前といえば、我が国では広島と長崎に原爆を落とされ、二つの都市は壊滅状態に陥った。原発は「原子力の平和利用」をうたい文句に推進され、我が国は原発大国になった。だが、福島事故によって、原発と原爆は表と裏の関係でしかないことが明らかになった。樋口氏は元裁判官として、原爆による放射能被ばくをどう捉えているのだろう。『私が原発を止めた理由』を注意深く読み返してみると、「黒い雨訴訟」から放射能の問題点を浮かび上がらせていた。

被爆実態に沿った「黒い雨」判決

黒い雨の雨域の変遷を表す図(ウィキベテアより)

広島への原爆投下後に降った黒い雨について、国は1976年、無料の健康診断を受けられる援護対象区域を制定、その範囲を爆心地から北西方向に長さ約19キロ、幅11キロとした。これに対し対象区域外にいた広島県内の男女84人が「黒い雨で健康被害を受けた」として2015年、被爆者健康手帳の交付を求めて提訴した。この裁判が「黒い雨訴訟」である。
広島地裁は84人全員への手帳交付を命じ、原告が勝訴した。広島高裁はさらに原告側に歩み寄り2021年7月14日、「被爆者に該当するか否かの判断にあたっては、原爆の放射能により、健康被害が生じることを否定できる否かという観点に立つべき」とし、「該当すると認められるためには、特定の放射能の曝露態様の下にあったこと、その態様が原爆の放射能による健康被害が生じることを否定できないものであったことを立証すれば足りる」と判示。そのうえで「黒い雨に放射性降下物が含まれている可能性があったことから、雨に直接打たれた者は無論のこと、たとえ打たれていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸引したり、地上に到達した放射性微粒子が入った水を飲んだり、放射性微粒子が付いた野菜を摂取したりすることで、内部被ばくによる健康被害を受ける可能性があったことが認められる。そうすると、広島の原爆投下後に黒い雨に遭った者は、被爆者に該当する」との結論に達した。
高裁が地裁判決を支持したことを受けて国は上告を断念、判決は確定した。
この判決で注目されるのは、被爆者であることの認定について、国が「科学的根拠が必要」と主張したのに対し、「住民らに厳密な根拠を求めるのは無理がある」と、被爆実態に即した判断をした点であろう。突然降りかかってきた放射能に対し、住民に「科学的知見」という防具をつけられるはずがないのは自明であろう。同訴訟原告の一人は「黒い雨被爆の本質は、放射性微粒子を体内に取りこんで引き起こされる内部被ばく。黒い雨によって汚染された環境で生活していた人をもれなく救う制度設計が必要」と訴える。(2021年10月20日付毎日新聞)

放射能安全神話の欺瞞

「黒い雨訴訟」を樋口氏はどのようにとらえていたのであろうか。『私が原発を止めた理由』の記述をみてみたい。
同書は黒い雨が降った範囲について、次のように述べている。
「宇田雨域」と呼ばれるものがある。原爆投下直後から4カ月余り、広島管区気象台の宇田道隆気象技師らが歩いて調査した雨域だ。宇田雨域では1時間以上大雨が降った大雨区域と、1時間に満たなかった小雨区域に分けられた。国、広島県、広島市は大雨区域にいた人は保護したが、小雨地域の人には手を差しのべなかった。
1989年、気象庁気象研究所の増田善信元室長が「広島原爆後の黒い雨はどこまで降ったか」について発表。宇田雨域よりも4倍広く「増田雨域」と呼ばれた。さらに2008年から2010年にかけて広島県と広島市が原爆被害実態調査を実施し、3万人を超えるアンケート調査結果に基づき新降雨域を発表。宇田雨域より数倍広く、調査を担当した大瀧慈広島大教授の名をとって「大瀧雨域」と呼ばれた。
裁判で被告(広島県、広島市、訴訟参加した国)は「増田雨域、大瀧雨域は正確ではない。原告らが黒い雨を浴びたという証拠はなく、仮に浴びたとしても高濃度の放射性物質ではない」として、被爆者に該当しないと主張した。
広島高裁は「黒い雨の降雨域は宇田雨域にとどまるものでなく、より広範囲に降ったことを確実に認めることができる」とし、「原告らの黒い雨が降ったという供述は信用できる」と認定した。
樋口氏は「黒い雨」の雨域推移に注目し、この判決について「大変丁寧な事実認定をしている」と評価。とくに判決が「黒い雨被爆者が低線量による内部被曝で健康被害を生じた可能性があることを否定できない」と判示した点を重視した。樋口氏は、半減期が1万年を超える不溶性酸化プルトニウムがいったん体内に入ると、永久に体外に排出されないため、体内の細胞が放射線被曝にさらされ続けるとの科学的知見に基づく判決とみたのである。
低線量被曝はおおむね100~200ミリシーベルト以下の放射線被曝をいう。樋口氏はこの判決から、原発問題に視点を広げ、次のように主張を展開する。
原発推進派は福島事故後、「放射能の害はタバコの害よりもはるかに小さい」「飛行機に乗るだけでも放射能を浴びる」「世の中は放射能であふれている。放射能をむやみに怖がるべきでない」という「放射能安全神話」を振りかざすようになった。この放射能安全神話の下に、子どもたちの甲状腺がんを含む福島事故に起因する健康被害はなかったことにされてきている。しかし、内部被曝のことを知れば、放射能安全神話の欺瞞性に気づくことになる。
国民が低線量被曝、とりわけ内部被曝の怖さをしることになれば、「放射能安全神話」の嘘が暴かれ、脱原発の動きが大きく加速することになる。この判決を、国民を守る防護壁と位置付けると、この判決の価値が一層増す。

始まった「黒い雨」救済制度

広島高裁前で黒い雨訴訟の勝訴を喜ぶ支援者 (ウィキベテアより)

今年2月11日、広島市は「広島の『黒い雨』に遭われた方へ」と題し、「一定の要件を満たすと認められる方は、被爆者健康手帳を受け取ることができます」と告知した。4月1日から「黒い雨」をめぐる救済制度が始まるのを前にしての健康手帳を受け取るための通知である。
それによると、「黒雲が(原爆)爆発後20~30分からつぎつぎに北北西へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって驟雨現象を起こした。驟雨は市中心部では軽く、西部と北部は土砂降りの豪雨になった」とし、手帳受け取りの要件として①黒い雨に遭ったことが黒い雨訴訟の原告と同じような事情にあったことが確認できること②造血機能障害を伴う疾病、肝臓機能障害を伴う疾病、内分泌線機能障害を伴う疾病など11種類の障害を伴う疾病にかかっていることが確認できること――の2点をあげた。
昨年10月までに原告以外の217人が手帳を申請。4月1日、広島県と広島市に約2000人が申請し、同6日までに審査を終えた44人に交付された。2000人全員が交付されるかなどの課題は残るが、広島の黒い雨問題が大きく前進したことはまぎれもない。
原爆は長崎にも落とされた。にもかかわらず救済制度が長崎に適用されないのは理不尽と長崎原爆被爆者は怒りの声をあげる。長崎県は今年2月8日、「黒い雨」を客観的に検証する専門家会議を設置し、オンラインで初会合を開いた。同県では1999年度に長崎市とともに証言調査を実施しており、そのデータ分析を進めるという。黒い雨訴訟判決によって、長崎の原爆被害者に範囲が0拡大されるか、大いに注目されるところだ。
もう一つ忘れてはならないのが福島原発事故による健康被害訴訟である。今年1月27日、原発事故によって放出された放射性物質によって、事故当時6~16歳だった6人が東京電力を相手取り、6億1600万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。このうち4人は手術で甲状腺を全摘したという。
甲状腺がんは「黒い雨」被曝者認定の対象とされる11種の疾病のうち内分泌線機能障害を伴う疾病に該当し、放射線に強く影響されることは明らかだ。しかし福島県の県民健康調査検討委員会は甲状腺がんの発症について「放射線の影響は考えにくい」としている。
すでに述べたよう樋口氏は子どもたちの甲状腺がんがなかったことにされるのは放射能安全神話によるものと主張している。この福島原発訴訟の裁判官が、黒い雨訴訟での広島高裁判決の「命を守る」という精神を理解していれば、放射能安全神話の嘘を暴いてくれるはずである。