22年夏号Vol.42 びえんと《語り部になったアウシュビッツ生還者》井上脩身

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所に送りこまれながら生き延びたウクライナ人の男性(96)が、ロシアの攻撃で死亡したことが3月21日に発表された。たまたま私は『アウシュビッツ生還者からあなたへ――14歳、私は生きる道を選んだ』を読み終えたところだった。強制収容所から生き延びたイタリアの終身上院議員、リリアナ・セグレさんが語った体験を、中村秀明・元毎日新聞副論説委員長が翻訳し岩波ブックレストとして刊行されたのだ。戦後77年。ロシアのプーチン大統領が行うウクライナ戦争の惨状をみると、強制収容所が決して昔話ではない恐ろしさを禁じ得ない。

映画『ライズ・イズ・ビューティフル』

映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のポスター(ウィキペディアより)

『アウシュビッツ生還者からあなたへ』を読む少し間、私は録画しておいた映画『ライズ・イズ・ビューティフル』を見た。映画は北イタリアの田舎町で陽気な父親と小学校教師の妻、その子の男の子がしあわせいっぱいに暮らしているころから始まる。やがてナチス・ドイツが駐留、3人は貨車に乗せられ強制収容所に送られる。収容所に入ると、男女は別の棟に放り込まれるので、母親と子どもは引き離される。父親は「これはゲーム。いい子にしていたら点数がもらえ、1000点たまったら本物の戦車が来て家に帰られる」と嘘をつく。「シャワーの日(毒ガスに送られる日)」に子どもはシャワーを嫌がってベッドに隠れるといったたぐいの幸運が重なってガス室に送られずにすむ。
父親は放送室に忍び込み、妻が好きだった曲を収容所中に流す。その曲を聞いた母親は、夫や子どもが生きていることを知る。戦争が終わり、父親が妻を探そうとしてナチスの兵士に見つかり銃殺される。ナチス兵がいなくなり、やってきた連合国の戦車に乗せてもらった子どもが母親を見つけ再会を果たす。子どもが「ゲームに勝ったよ」というと、母親は「本当に勝ったのよ」とこたえる。
コメディー俳優のロベルト・ベニーニが脚本・監督・主役をつとめた。ベニーニの父親は強制収容所で2年間過ごしたことがあり、「強制収容所での虐殺」という重いテーマを扱いながら、悲愴さを漂わせずに表現。父親の息子に対する無償の愛情を描いたとして高く評価され、1998年のカンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞。1999年のアカデミー賞では7部門にノミネートされ、外国語映画賞に加えて主演男優賞、作曲賞にも輝いた。
私はこのように高く評価された映画とは知らずに見ていた。たしかに肩の凝らない愉快な映画であった。若いころなら、アウシュヴィッツをこんなに軽々しく描写するとは、と否定的な評価をしたかもしれない。

家畜運搬用の貨車に押し込まれ

ユダヤ人を収容所に運んだ貨物車(ウィキペディアより)

『ライズ・イズ・ビューティフル』は北イタリアの田舎町の親子3人の物語であることはすでにふれたが、リリアナ・セグレさんも疎開先の北イタリアで迫害を受けるはめになった。中村秀明さん訳の『アウシュビッツ生還者からあなたへ』にそって、彼女の生涯を追ってみたい。
セグレさんは1930年、ミラノのユダヤ人家庭に生まれ、小学校3年生(8歳)のとき、ファシスト政権が制定した人種法によって、学校に通うことができなくなった。国外に避難する人が増えたが、セグレさんの両親は、「これ以上悪くならないだろう」と踏みとどまった。やがて第二次世界大戦が勃発し、ミラノは爆撃を受けるように。1943年秋、一家はミラノの北のインベリゴという村に疎開した。
疎開と前後してドイツが北イタリアを占領、ユダヤ人への弾圧をはじめた。ある日、友人が「一緒にいらっしゃい」と、セグレさんをかくまってくれた。数カ月後、会いに来てくれた父親に「国外に出よう」と頼み、スイスに亡命することになった。男性が案内してくれ、冬の山を越えてスイスにたどり着いたところで、役人が現れ、引き返すよう命じた。案内人が裏切ったのだ。国境を越えてイタリアに戻ると捕らえられ、ミラノの北のバレーゼの収容所に入れられた。さらにコスモの施設に移された後、ミラノの刑務所の202号室に40日間父親と収容された。
1944年1月のある日、名簿を持つドイツ人に命じられ、ユダヤ人605人が一列になって刑務所をあとにした。その際、受刑者が渡り廊下から「あなたたちのことを祈っている」といってマフラーなどを投げてよこしてくれた。どんなに罪を犯しても、彼らは「人間」だった。その後の2年間、セグレさんは「人間」としての心をなくした「怪物」としか出会わなかった。
セグレさんは殴ったり蹴られたりしながらトラックに載せられ、ミラノ中央駅に。家畜運搬用の貨車に、1両に40~50人が押し込まれて発車。貨車にはバケツが一つあるだけ。イタリアからオーストリアに入ると、すすり泣きが漏れ、悲嘆の叫びが聞こえた。救いを求める祈りが始まったが、やがて沈黙に包まれた。最期の時を悟った沈黙だった。
出発から1週間後の2月6日、雪に覆われた平原の中の駅で引きずりおろされた。ここからが地獄の道だった。

幾重もの生へのハードル

アウシュビッツ強制収容所(ウィキペディアより)

できたばかりの駅に着くと、しま模様の服を着た人がやってきて、家族を引き離し、荷物を取り上げた。男と女に分けられ、父親との最後の別れとなった。さらに選別されて、13歳のセグレさんは30人くらいの人たちといっしょになった。ほかの女性はみなガス室に送りこまれた。
30人は歩くよううながされ、鉄格子の扉がある所まで進んだ。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の入り口だった。所内の一番手前のバラックに入ると、腕に数字の入れ墨を彫られた。番号は「75190」。このドイツ語の発音をおぼえることが生への最初のハードルだった。番号を呼ばれてすぐ返事ができなければ殺されるのだ。入れ墨の後は服を脱がされ、髪をそられて裸にされ、だぶだぶの囚人服を着せられた。
敷地の広い通りの先に不気味な建物の煙突があり、煙と炎が見えた。半年前に連れてこられたフランス国籍の女性に尋ねると、「あなたたちがホームで別れた人たちはもう煙になってるわ。働けない者はガス室に送られるの」という。働けることが生への次のハードルだった。
囚人であり奴隷でもある生活が始まった。5、6人に1枚の割で毛布が与えられ、なんとか自分だけのものにしようとみんなは必死。生きるために否応なくエゴイストになっていった。
セグレさんは軍需品の工場での労働を割り当てられた。毎朝、国籍の異なる750人の女性とともに、ドイツ語の歌をうたわされ、歩いて収容所を出て工場に向かう。その間は、死の恐怖から背を向けることができ、その日その日を生き延びるよりどころになった。
収容所では、囚人の中からナチスに選ばれた者によって見張られた。ある時、見張りの女性の命令で50~60人のグループに分けられ、シャワーを浴びるために裸にさせられてバラックを出た。通路を進むと「裁きの場」があり、3人の男性がいた。うち1人は医師、ヨーゼフ・メンゲレ。彼は労働に耐えられるかどうかを見極めるため、体の前後と口を調べる。そしてあごを少し動かして、ガス室行きかどうかの合図をした。まだ働けるとわかったときは、誕生日がやってきたようなうれしい瞬間だった、とセグレさんは後に述懐した。
強制労働をさせられた工場ではフランス国籍のジャニーンの助手になった。ある日、ジャニーンが材料を切断する機械で、指2本を切りおとした。傷口を縫い合わせたが、裁きの場で隠せるはずはない。セグレさんのすぐ後ろにいたジャニーンが「ガス室行き」の宣告されたとき、セグレさんは振り返ろうともしなかった。「人としての尊厳をなくし、はおぞましい人間になってしまった」のだ。

数百キロの「死の後進」

ガス室に送りこまれる人たちの列(ウィキペディアより)

収容所に入ってほぼ1年がたった1945年1月、ドイツ軍が「よそに移す」といいだし、氷点下の極寒の中を歩かされつづけた。1月27日にソ連軍によってアウシュビッツ収容所は解放されるが、そうとは知るよしもないセグレさんらは数百キロを何か月もかけてひたすら歩かされた。力尽きて倒れると、ドイツ兵に頭を拳銃で撃たれる。後に約6万人が歩かされ、少なくとも1万5000人が命を落としたことが判明、「死の後進」と呼ばれた。
この行進中、道ばたに堆肥が積み上げられていた。みんな飢えにもがいていて、食べるものはないかと堆肥をあさった。やはり道ばたに馬の死体を見つけた時、前を歩いていた女性が馬の肉を生のまま食べていた。セグレさんも食べられそうな部分を見つけ、すこしずつにみこんだ。生へのハードルの最後は、人間性をなくすことだった。
その後、いくつもの収容所を転々とさせられ、その都度、ひとりまたひとりと命を落としていった。最後の収容所となったドイツ北部のマルヒョー収容所では働かされることはなくなったが、体力はほとんどなくなっていた。
ある日、鉄条網の向こうにいる捕虜になったフランス軍兵士が「もう戦争は終わろうとしている。ドイツは負ける。死んじゃだめ」と教えてくれた。
1945年5月1日、収容所から出るようにと命令され、外に出ると、収容所の所長がすぐ近くを歩いていた。所長は着替えるため軍服を脱ぎ、下着だけになっていた。彼は拳銃も投げすてていた。憎しみと復讐を糧として生きてきたセグレさんは自分に言った。「拳銃を拾いなさい。引き金をひくの」。一瞬、間をおいた。セグレさんの人生を決定づける間になった。私は、人を平気で殺す彼らのような人間でない。とわかり、セグレさんは解き放たれた。

最後の証言の場「平和の砦」

セグレさんが最後の語りをした「平和の砦」(ウィキペディアより)
語り部となったリリアナ・セグレさん(ウィキペディアより)

ミラノの刑務所からミラノ中央駅まで一列になって歩かされた605人のうち生き延びることができたのはわずか22人。セグレさんの父親は1944年4月27日に殺されていた。
1951年に結婚し、3人の子どもに恵まれたが、強制収容所での体験はいっさい語らなかった。1990年代初め、彼女は沈黙を破り、学校などに出向き、残忍な実態を赤裸々に語り出した。それから30年間、語り部として証言をつづける。その活動が認められ、2018年、セグレさんはイタリア大統領から終身上院議員に任命された。
翌年10月、インターネット上などでの人種差別的な言動や中傷・脅迫などを監視する組織を新たに設けることを提案、法案は賛成多数で可決された。すると極右グループとみられる者たちからネットを通じた脅迫や中傷が相次ぎ、外出時は二人の私服警官がボディーガードにつく事態に。こうしたなか、セグレさんは90歳になって間なしの2020年10月9日、「平和の砦」で1時間以上にわたり語り部としての最後の証言を行った。中村さんが訳したのはこの最後の語りである。
「平和の砦」は映画『ライズ・イズ・ビューティフル』のロケ地から車で15分のところにある。チェチェン紛争をきっかけに、チェチェンとロシア双方の要人と親しい関係にあった市民運動家らが、廃虚となった建物を修復し、敵対する国の若者たちが暮らす場として構築した。セグレさんは、指を切断しガス室に送られたジャニーンをしのぶ場の建設を目指していたこともあって「平和の砦」に着目、ここを最後の証言の場に選んだ。
会場には首相や外務大臣、上院議員も姿を見せ、多くの若者が集まった。小さなハンカチを握りながら、原稿を持たずに語るセグレさんの様は国営放送の生中継で報じられた。
中村さんは新聞社を退職後、ボローニャ大学に留学。セグレさんがネット上での人種差別的言動などを監視する組織を提案していることを知った。コロナ禍中の2021年3月、セグレさんに電話によるインタビューをした。セグレさんは「日本語に翻訳されるなんて考えてもみなかった」と語り、収容所長を撃たなかったことについて、「家族の愛に包まれていて、愛しかしらなかった。人に対してひどい振る舞いをする人間などでは決してないことを思いだした」と述べた。
セグレさんは映画『ライズ・イズ・ビューティフル』について、「ベニーニが描いたようなことはあり得ない」と一蹴。「強制収容所であり得たことは死だけだった。子どもが母親と再会するというのは希望を感じさせるが、おとぎ話の結末にすぎない」と批判する。

冒頭に述べたロシアによるウクライナ戦争で犠牲になったウクライナ人男性について、説明しておかねばならない。男性はポリス・ロマンチェンコさん。3月24日付毎日新聞によると、1926年、ウクライナ北東部のスムイ近郊に生まれ、16歳の時にドイツ兵に連行され、ドイツ東部ワイマール近郊のブーヘンバルト強制収容所など4カ所の収容所を転々とさせられた。戦後、ナチス・ドイツの迫害の実態を伝える活動を開始。2012年にブーヘンバルト強制収容所を訪れた際には、平和と自由が君臨する新たな世界を作るという、ホロコーストの生存者の誓いを朗読した。
ロマンチェンコさんの死について、ウクライナのクレバ外相は「ヒトラーから生き延び、プーチンによって殺された」とツイッターに投稿した。
この記事を読んで、私はリリアナ・セグレさんに思いをはせたのであった。彼女はこのニュースに何らかのコメントをしたのであろうか。
ところで、セグレさんの体験談を日本語に訳した中村さんは新聞社の四国の支局でともに仕事をした仲である。経済部記者、論説副委員長などを務め、退職後、イタリアの大学に夫婦で留学したと聞いていた。それがボローニャ大学と知ったのはこの『アウシュビッツ生還者からあなたへ』によってである。彼は大学は英文科であったが、イタリア語を翻訳できるまでに身につけたことには、ただただ敬服である。