Lapiz22夏号Vol.42宿場町《東海道・二川宿1》文・写真 井上脩身

替え玉の琉球使節が泊まった本陣

歌川広重画東海道五拾三次ノ内二川」(ウィキペディアより)

愛知県に住む友人が長篠の古戦場など、居住地周辺を案内してくれ、その一つに、旧東海道の二川宿本陣跡があった。本陣跡は豊橋市の二川宿本陣資料館として江戸時代の姿を再現展示しており、観光名所にもなっている。私は展示内容を紹介するカタログを買い求め、ページをめくったところ、「琉球人御使(豊見城王子)」という記述に目が留まった。天保3(1832)年11月、琉球王国の使節として将軍に拝謁するために江戸に向かった琉球国の王子が二川宿本陣に宿泊したというのだ。これまであちこちの宿場跡を訪ねたが、琉球の王子が泊まったという記録に触れたのは初めだ。調べてみると、王子は鹿児島で急死しており、本陣に姿を見せたのは替え玉であった。

江戸上りの豊見城王子

豊見城王子の身代りとなった普天間雲上朝典の像(ウィキペディアより)

琉球に王国が誕生したのは1429年。尚巴志が統一をなしとげ、首里城を整備した。その分家として、豊見城王子朝良(1662~1687)を元祖とする豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)と呼ばれる大名が誕生。その七世として1831年、朝春が豊見城王子になった。
江戸時代になって琉球王国が薩摩の島津氏の支配を受けたことから、琉球国王が即位した際に謝恩使を、将軍が代替わりした際に慶賀使を江戸に派遣。「江戸上り」と呼ばれ、1634年から1850年まで18回行われた。1710年の江戸上りでは二世の朝匡が謝恩使として派遣されており、1832年は朝春が謝恩使の大役を担うことになった。
豊見城御殿としては約80年ぶりの謝恩使である。朝春はさも胸躍るおもいであっただろう。ところが、江戸に向かう途中の鹿児島で朝春は急死、普天間親雲上朝典が替え玉になった。親雲上(ぺーちん)は中級士族に相当する称号である。

本陣経済の一端を表す宿帳

旧東海道に面した二川宿本陣跡の外観

二川宿は江戸から数えて33番目、遠江から三河に入って最初の宿場にあたる。文政3(1820)年の記録では、約1・3キロの街道に沿って306軒の家があり、人口1289人。本陣が1軒、脇本陣2軒、旅籠30軒の比較的小さな宿場であった。「豊見城王子」が江戸上りをした1832年、人口1413人と住人は増えたが、その他は変わることはなかったであろう。
二川宿は愛知県の東部にあり、浜名湖の西10キロの所に位置している。宿場西端の見附近くに「立場茶屋」という茶店があり、馬引きの休憩所だった。東にしばらく進むと問屋場と高札場。そのすぐそばに脇本陣。さらに東に本陣がある。
二川宿では江戸時代当初から後藤五左衛門家が本陣職を務めていた。間口22間の建物だったが、たびたび火災に遭って後藤家は没落。寛政5(1793)年、紅林権左衛門が後藤家を継ぎ、数十メートル西に本陣を新築したが、文化3(1808)年に火災に見舞われ本陣職を辞任。馬場彦十郎がその後を引き継ぎ高札場近くに本陣を構えた。馬場家は明治3(1870)年まで本陣職を務めており、「豊見城王子」が宿泊したのは馬場家本陣である。

替え玉の豊見城王子も泊まったと思われる上段の間

天保年間後期(1840年ころ)に作成された本陣見取図によると、床面積614平方メートルの屋内に35室があり、玄関だけでも24畳もあるスケールの大きさ。大名が寝泊まりする「御上段」は8畳、大名のための湯殿は3畳の広さ。安政年間(1860年ころ)に増改築し、床面積は771平方メートルに拡張。この本陣増改築に要した経費は428両(3340万円)。資金の出所は類焼拝借150両(1200万円)、御役所拝借20両(160万円)、馬場家用意258両(2070万円)=1両8万円として計算=だった。本陣職は相当の豪商でなければ務まらなかったのだ。
本陣の建物は明治以降も馬場家の住居として使われ、1985年豊橋市に寄贈。同市は2年後の1987年に市の史跡に指定した。こうしたことから、本陣が安政年間の建物に近い形で現存しているのが最大の特徴。さらに興味深いのは文化4(1807)年から慶応2(1866)年までの宿帳33冊が残っていることだ。宿帳は「御休泊早見」「御通行日記」「御休泊記録」の3種類から成っており、愛知県の有形民俗文化財に指定されている。
天保8(1837)年4月4日、筑前藩主松平美濃守が宿泊したときの日記には、「御宿料銀5枚、献上物なし、御上下37人様、御一人付412文」などと記されている。銀5枚は3両2分余り、馬場家から宿泊客への献上物はなかった。宿泊したのは37人、一人の宿代は412文なので合計額は15貫260文だった。
以上は一例である。本陣経済の一端を示しているだけでなく、参勤交代で各藩がどれほどの経費負担をしたかを知るうえでも貴重な記録である。(明日に続く)