Lapiz22夏号 Vol.42 とりとめのない話《俳句うらおもて》中川眞須良

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私がながく接するモノクローム写真の世界は日常に於ける自分のイメージトレーニングの現状、結果を目視で確認できる唯一の手段と思っている。このため内面的なアンテナを立て、広く情報、感覚をキャッチすることに心がけているが、このアンテナ 自分の体調、気分、またTPOによって感度が著しく変化する(ほとんどの場合、鈍化する)ので困ったものである。こんなアンテナがよくキャッチする情報の一つに、俳句がある。
少し前の時代の句だがおもしろい作品に出会ったので紹介したい。

行きすぎて 女見返す 汐干かな                   露桂 
である。

私がこの句をトレーニングの対象に恰好の作品とする理由はその解釈の範囲の広さにある。
もともと俳句の解釈は自由であるが作者の心情を理解し、場を読み、感じ方を絞り込んでいくことが、句との一般的な接し方とすることに異論はないであろう。とするならばこの句は逆に解釈範囲があまりにも広い、ということで決して秀作と言えないのかもしれない。

しかしモノクローム写真の世界ではこの注目性のある、広さと深さ、これこそが「いのち」なのではなかろうか。

その解釈である。
・女は、そして作者は汐干への行きか、帰りか
・「見返す」のは誰か、また男か女か
・「見返す」の理由、動機は
・女と作者の、歩く方向は
・女の服装は          等々。

俳句の先達から「未熟者!」と一蹴されること、必定かも・・。
しかし、もし私がカメラを手にしこの場に居合わせたなら、何時、何処でシャッターを切ったであろう。
このある種のときめきを含む疑問の蓄積、これこそがイメージトレーニングそのものであると同時に、「モノクローム写真の世界」へのパスポートでもあろうと思うが、現代社会、このような光景に出くわす機会は皆無であろう。

寂しい。

露桂:ろけい 元禄年間の人と思われる。