東福寺という寺院が京都にある。日本最古で最大の伽藍を誇る。
また通天橋と呼ばれる仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊があり紅葉の季節にはにぎわう。
連載コラム「日本の島できごと事典 その70《隠岐島コミューン》渡辺幸重
日本が明治維新によって近代に入る時期、日本海に浮かぶ島根県の隠岐諸島・島後(どうご)では島民が血を流すことなく松江藩の役人たちを追放し、自治政府を樹立しました。80日間という短い政権でしたが、自治機関を設置して他に例をみない島民自治を実現したのです。これは「隠岐騒動(雲藩騒動)」と呼ばれますが、「もう一つの明治維新」ともいわれており、評論家の松本健一は1868(慶応4)年のこの自治政府をパリコミューンに3年先立つ無血革命として評価し、隠岐騒動を「隠岐島コミューン」と呼んでいます。
幕末の日本は、欧米列強の姿が見え隠れする中で攘夷か開国か、勤王か佐幕かで揺れていました。江戸幕府は1825(文政8)年に外国船打払令を出し、隠岐の警備を強化しました。松江藩によって隠岐に藩兵が常駐したり、島民による農兵隊を組織することもありました。島後では異国船による危機感が強まるなかで島出身の国学者・中沼了三の影響で神官や庄屋などの指導者層に尊皇攘夷思想が広まり、米などの物価高もあって松江藩派遣の郡代や一部特権商人に対する島民の不信が高まっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行った1867(慶応3)年、島から京都の情勢をさぐる一行が派遣したところ、王政復古により隠岐国は「朝廷御料」になったことがわかりました。支配が幕府から朝廷に代わったのです。そこに郡代が山陰道鎮撫使から隠岐の庄屋方への文書を勝手に開封した事件が起き、一気に松江藩に対する不満が噴出しました。11か村の庄屋大会が開かれた結果、郡代追放が決議され、3月19日(旧暦)、島民約3,000人が武装蜂起して陣屋を攻撃。その結果、郡代は抵抗することもなく翌日島外に脱出しました。ここに島民による自治政府「隠岐島コミューン」が成立したのです。島民は追い出した松江藩の役人に餞別として米や味噌、酒を贈ったので「優しい革命」と言われています。
自治政府は尊王攘夷の実現を目指し、長老格による議決機関「会議所」や執行機関「総会所」、警備を行う組織などの自治機関を整備しました。しかし、自治政府は松江藩による武力攻撃を受け、5月10日に崩壊してしまいます。
その後、自治体政府側は鳥取藩・長州藩・薩摩藩に援助を求め、その成果があって6月に島民自治が復活しました。明治新政府は隠岐国の管轄を鳥取藩に任せ、1869(明治2)年2月には隠岐県の設置が決まり、4月に知事が赴任したため自治政府は解散に至りました。自治政府としては80日以上あったことになりますが、後半の鳥取藩のゆるやかな支配下では実質的な自治があったとされる一方、明治新政府は自治政府を認めていなかったともされるので、ここでは「隠岐島コミューン」の活動期間を前半の80日間としました。
1871(明治4)年、明治政府の手によって島民と松江藩双方の関係者が罰せられ、一連の騒動は決着しました。
写真散歩・石の風景《マーブルビーチ》片山通夫
マーブルビーチは関西空港の向かい側にある人工の浜である。
真っ白い小石がびっしりと敷き詰められていて、関西空港で発着する航空機を眺めることができる。天気のいい日には真っ赤な太陽が海に沈むさまを眺めながらという贅沢なスポットだ。
写真散歩・石の風景《青山讃頌舎》片山通夫
ミュージアム青山讃頌舎は 三重県青山高原にある。静かな佇まいの中で名品を鑑賞すると言った贅沢をゆっくりと流れる中で。
写真散歩・石の風景《安曇川の河童伝説》片山通夫
写真散歩・石の風景《近江孤篷庵》片山通夫
近江孤篷庵の庭
小室(こむろ)城主で、千利休、古田織部とともに日本三大茶人としても名高い小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579-1647)の菩提を弔うために、2代目城主宗慶(そうけい)(正之)が、江戸時代前期、京都大徳寺(だいとくじ)から僧円恵(そうえんけい)を招いて開山した臨済宗大徳寺派の寺。遠州が京都大徳寺に建立した孤篷庵にちなんで、近江孤篷庵としました。(長浜、米原を楽しむ 観光情報サイト)
写真散歩・石の風景《琵琶湖にかかる浮桟橋》片山通夫
その昔、ここは「秘境」だった。半世紀ほど前には雪が深くて琵琶湖を船でわたらなっくては行くことができなかったという。その船をつける桟橋が写真の一枚の板。浜は石ころで埋められている。
写真散歩・石の風景《一乗谷にて》片山通夫
福井県に一乗谷朝倉氏遺跡がある。その近辺で見つけた岩の屏風。場所はわかっているのだが名称に関しては定かではないというか失念した。立派な岩である。
日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重
今年の7月8日、私は病院で大腸内視鏡検査の準備をしていました。そのとき、通りかかった看護師の突然の大声に顔を上げたら無音のテレビ画面に「安倍元首相銃撃され心肺停止」という文字が貼り紙のように映っていました。狐につままれた気持ちでボーとしているとき、頭に浮かんだのはある男の暗殺現場の白黒写真でした。1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺された当時の社会党委員長・浅沼稲次郎のことです。浅沼は、伊豆諸島・三宅島(みやけじま)の出身で、島には生家が残り、すっくと立って右手を掲げたポーズの浅沼の銅像が建っています。 “日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重” の続きを読む