連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重

「のがれの島」の碑(奥武島)

1927(昭和2)年、青木恵哉(けいさい)は熊本・回春病院から派遣されて沖縄にやってきました。キリスト教を伝道しながらハンセン病患者救済のための療養所開設を目指したのです。青木は徳島出身のキリスト教宣教師で、みずからもハンセン病を患っていました。

 かつて“らい病”と呼ばれたハンセン病は、らい菌によって主に皮膚と神経が侵される慢性の感染症で、患者の外見と感染に対する恐れから世界中で何世紀にもわたって患者やその家族が社会的差別を受けてきました。患者は遠く離れた島や隔離された施設に収容され、社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを強制された歴史があります。日本では1931(昭和6)年に癩(らい)予防法が制定されて患者が療養所に隔離されるようになりました。戦後の1953(昭和28)年のらい予防法でも「強制隔離」「懲戒検束権」などの規定が残り、患者は働くことを禁止され、療養所入所者は外出を禁止されました。法的根拠のない断種(避妊手術)さえ強制されたといいます。ハンセン病はもともと伝染力が弱く、1943(昭和18)年には米国で特効薬が見つかり、いまでは完全に治る病気になっています。しかし、国は長く強制隔離政策を維持し、ようやく1996(平成8)年になってらい予防法を廃止し、厚生大臣が謝罪しました。

 青木が沖縄で活動を始めた頃、沖縄県はハンセン病患者が多い県でしたが、療養所は宮古島にしかありませんでした。沖縄島で療養所建設を計画したところ、地域住民の猛烈な反対運動が展開されて学童の登校拒否や暴動(嵐山事件)まで起き、実現しなかったということです。社会の目が厳しい中で1935(昭和10)年には屋部(やぶ)地区(現名護市)に患者と住んでいた青木たちも家が焼き討ちに遭うなどの迫害を受けたため、青木たちは住む場所を求めて屋我地(やがじ)島と沖縄島にはさまれた羽地内海(はねじないかい)の中ほどに浮かぶ小さな無人島・ジャルマ島に渡りました。ここは風葬に使われていた“墓の島”で、ドクロや人骨とともに約6ヶ月間、魚を獲りながら暮らしました。水もない小さな島なので毎夜、隣の村から水を運んだといいます。青木はジャルマ島を「カルバリー島」(「されこうべの島」)と名づけました。迫害から逃れたことから「のがれの島」とも呼び、奥武(おう)島の屋我地大橋のたもとに「のがれの島」の石碑が建立されています。そこには、「青木師外十五名がのがれのがれて露命をつないだ無人島ジャルマ!」と書かれています。

 ジャルマ島での苦難の生活のあと、青木らは屋我地島北端に土地を購入して入植し、その活動が基になって1938(昭和13)年、その地にハンセン病療養所「沖縄県立国頭(くにがみ)愛楽園」が設立され、3年後に国に移管されました。それが現在の「国立療養所沖縄愛楽園」につながっています。

 無知な国民がハンセン病患者の外見で病気を恐れ、患者を迫害した風潮も恐ろしく感じますが、国が法律を作って科学的根拠もなく強制隔離を行い、治る病気だとわかってからも長く差別政策を続けたことにも戦慄と強い怒りを感じます。