連載コラム「日本の島できごと事典 その70《隠岐島コミューン》渡辺幸重

隠岐騒動勃発地碑(「 HOTELながた」HPより) https://www.hotel-nagata.co.jp/2012/11/27/10111

日本が明治維新によって近代に入る時期、日本海に浮かぶ島根県の隠岐諸島・島後(どうご)では島民が血を流すことなく松江藩の役人たちを追放し、自治政府を樹立しました。80日間という短い政権でしたが、自治機関を設置して他に例をみない島民自治を実現したのです。これは「隠岐騒動(雲藩騒動)」と呼ばれますが、「もう一つの明治維新」ともいわれており、評論家の松本健一は1868(慶応4)年のこの自治政府をパリコミューンに3年先立つ無血革命として評価し、隠岐騒動を「隠岐島コミューン」と呼んでいます。
幕末の日本は、欧米列強の姿が見え隠れする中で攘夷か開国か、勤王か佐幕かで揺れていました。江戸幕府は1825(文政8)年に外国船打払令を出し、隠岐の警備を強化しました。松江藩によって隠岐に藩兵が常駐したり、島民による農兵隊を組織することもありました。島後では異国船による危機感が強まるなかで島出身の国学者・中沼了三の影響で神官や庄屋などの指導者層に尊皇攘夷思想が広まり、米などの物価高もあって松江藩派遣の郡代や一部特権商人に対する島民の不信が高まっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行った1867(慶応3)年、島から京都の情勢をさぐる一行が派遣したところ、王政復古により隠岐国は「朝廷御料」になったことがわかりました。支配が幕府から朝廷に代わったのです。そこに郡代が山陰道鎮撫使から隠岐の庄屋方への文書を勝手に開封した事件が起き、一気に松江藩に対する不満が噴出しました。11か村の庄屋大会が開かれた結果、郡代追放が決議され、3月19日(旧暦)、島民約3,000人が武装蜂起して陣屋を攻撃。その結果、郡代は抵抗することもなく翌日島外に脱出しました。ここに島民による自治政府「隠岐島コミューン」が成立したのです。島民は追い出した松江藩の役人に餞別として米や味噌、酒を贈ったので「優しい革命」と言われています。
自治政府は尊王攘夷の実現を目指し、長老格による議決機関「会議所」や執行機関「総会所」、警備を行う組織などの自治機関を整備しました。しかし、自治政府は松江藩による武力攻撃を受け、5月10日に崩壊してしまいます。
その後、自治体政府側は鳥取藩・長州藩・薩摩藩に援助を求め、その成果があって6月に島民自治が復活しました。明治新政府は隠岐国の管轄を鳥取藩に任せ、1869(明治2)年2月には隠岐県の設置が決まり、4月に知事が赴任したため自治政府は解散に至りました。自治政府としては80日以上あったことになりますが、後半の鳥取藩のゆるやかな支配下では実質的な自治があったとされる一方、明治新政府は自治政府を認めていなかったともされるので、ここでは「隠岐島コミューン」の活動期間を前半の80日間としました。
1871(明治4)年、明治政府の手によって島民と松江藩双方の関係者が罰せられ、一連の騒動は決着しました。