連載コラム・日本の島できごと事典 その71《北海道南西沖地震》渡辺幸重

津波被害を受けた奥尻島・青苗地区(東大地震研HPより)

1993(平成5)年7月12日午後10時17分、北海道全域はもとより東北地方や北陸地方まで広範囲に大きく揺らす地震が起きました。マグニチュード7.8という日本海観測史上最大級の「北海道南西沖地震」です。震源は北海道島の南西沖、奥尻島の北西約70km沖にあたり、震源域には奥尻島が入っていました。北海道や東北地方の各地で震度5の強震から震度4の中震が記録され、奥尻島では震度6の烈震と推定されました(奥尻島には当時、地震計が設置されていなかった)。島はこの地震と津波によって壊滅的な被害を受け、奥尻島だけで死者・行方不明者198人という犠牲が出ました(奥尻町HP)。奥尻島を含む北海道南西沖地震全体の死者・行方不明者は230人となっています(自治省消防庁1994年)。
奥尻島は1995(平成7)年国勢調査で1,669世帯4,301人(2020年は1,215世帯2,410人)が住む島です。その規模の島で崖崩れや津波、火災によって一瞬のうちに437棟の家屋が全壊し、半壊88棟・一部損壊827棟、床上浸水47 棟、非住家損壊708棟、漁船の沈没流失421隻・破壊170隻という甚大な被害が起きました。被災後の光景は空襲の跡のように見え、当時の町長は「これで奥尻町は終わった……」と嘆いたそうです。
地震発生直後、奥尻地区で大規模な崖地が崩壊し、ホテルなどが一瞬のうちに飲み込まれ、宿泊客と従業員41名のうち29人が犠牲になりました。さらに島全域を大津波が襲い、人々と家々を飲み込みました。地震発生から約5分後に「大津波警報」、約7分後に「避難命令」が発令されましたが、津波はそれより早く地震の2~3分後に第一波が来襲したとみられています。1983(昭和58)年の日本海中部地震では地震発生後17分後に津波が島に到達したため、その記憶が人々の油断を招いたのでは、ともいわれます。青苗地区では、津波から難を逃れた家々に火災が発生し、津波に残された市街地を焼き尽くしました。1回の地震発生により、奥尻島は崖崩れ・津波・火災による災害を一気に受けたのです。
奥尻町は「町災害復興計画」を策定し、「生活再建」「防災まちづくり」「地域振興」の三本柱を掲げて島を挙げて復興に取り組み、1998(平成10)年3月に完全復興宣言を出すに至りました。島の海岸線84kmのうち13.4kmに巨大な防潮堤が整備され、背後地には盛土した安全な高さの地盤が築かれました。
約665億円の甚大な被害を受けながらも予想以上に早かった復興の理由の一つに全国から集まった義援金が挙げられます。被災地全体約256億円のうち187億6千万円が奥尻町に配布されました。これが住宅取得への助成など73項目に及ぶ被災者への支援と自立復興にあてられたのです。家を再建する世帯には最大1,480万円が支給されました。ちなみに、阪神・淡路大震災(1995年)のときの義援金配分は、最大で1世帯当たり数10万円だったそうです。