連載コラム・日本の島できごと事典 その74《寝屋子制度》渡辺幸重

答志島(鳥羽市HPより)

江戸時代には全国各地に「若者組(若衆組)」という地域教育の仕組みがありましたが、三重県鳥羽諸島の答志島(とうしじま)・答志地区には今でも「寝屋子(ねやこ)制度」と呼ばれる慣習が残っています。15歳の男子数名が寝屋親の家で寝泊まりする制度で、全国でも続いているのはこの地区のみではないかといわれています。2007(平成19)年2月に「答志寝屋子制度」として三重県の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されました。

答志島は伊勢湾口に位置する島で、3つの漁村集落があり、海女漁も盛んです。答志地区では、男子が15歳になると5~10人ほどが1組となって家の広さや人柄などの条件によって選ばれた寝屋親の家の一室で集団生活をします。毎日、自宅で夕食をすませたあと寝屋に寝泊りし、朝には自宅に戻るという生活をするのです。寝屋子同士は実の兄弟のように絆を深め、寝屋親はときには相談相手ともなり、寝屋子が成人になれば酒もくみ交わすこともします。その中で若者は島で暮らす心構えやしきたりを覚えるのです。この生活はメンバーの誰かが結婚するまで続きます。寝屋子同士は「朋輩(ほうばい)」と呼ばれ、解散後も「朋友会(ほうゆうかい)」を結成して生涯親密な付き合いが続きます。寝屋親は生涯、実の親と同様に敬われ、寝屋子が結婚するときには仲人の一人になります。
かつては島の男子全員が寝屋子に入っていましたが、近年は長男に限られるようになり、寝泊まりも金曜日の夜だけ集まることが多くなったということです。寝屋子の期間も「中学を卒業すると始まる」「27歳で解散する」などの説明も見られるので状況によっては始まりと終わりの時期にズレがあるのかもしれません。

若者組の発祥についてははっきりしませんが、伊勢志摩地方の制度は九鬼水軍が船の漕ぎ手をすばやく集めるためにつくったという説があります。古くから漁業が盛んな答志島では大勢の人々が協力する作業が多いことから寝屋子制度が継続したともいわれ、それが後継者の定着につながっているといわれます。若者組制度は、鳥羽諸島の坂手島では「宿屋(とまりや)制度」として大正末期まで続き、同じ答志島の桃取地区では1960年頃に「寝屋子制度」が自然消滅したそうです。

古くからの慣習といえども現代に通じるものもあります。寝屋子制度が現代の教育理論から再評価され、教育問題を解決する新しい方法を提供してくれる可能性もあるのではないでしょうか。