びえんと《マラリアの山に追いやられた八重山の人たち》文・Lapiz編集長 井上脩身

~日本軍の戦争犯罪を絵で告発~
 戦時中、「避難」と称して、日本軍が住民をマラリアが流行する山中に追いやっていたことを、最近『絵が語る八重山の戦争』(写真右)という本で知った。住民の半数以上がマラリアにかかり、4分の1が死亡した。戦後、将校の宿舎からマラリアの特効薬、キニーネがつまった袋が発見された。軍は住民にマラリアの恐怖を強いながら、自らは罹患の恐れのないところにいて、かつ我が身を守る手立てをしていたのである。沖縄戦ではガマに逃げた住民を軍が追い出した例はあまたあるが、八重山では住民をハマダラ蚊の襲撃のなかにさらしていたのだ。

言葉で表せない戦争の実相

 同書は版画家、潮平正道さんが自らの体験と知人の証言をもとに、絵で表した。潮平さんは1933年石垣島生まれ。小学生のときに太平洋戦争がはじまり、旧制の中学生になると、鉄血勤皇隊員として敵の戦車に爆弾ごと体当たりする訓練などを行った。戦後、版画をかきはじめ、1956年、日本版画家協会展に出品した銅版画が入選し、版画家としての道を歩んだ。

 潮平さんの息子が中学生のとき、平和学習で戦争体験を語ってほしいと依頼されたのをきっかけに、毎年のように小、中、高校で語り部をつとめた。そのうち、言葉だけで戦争の実相を伝えるのは難しいと感じ、絵にして説明するようになった。描き始めると、当時の記憶が次々に蘇り、全部で60枚以上にのぼった。2018年、地元・石垣島で展示会を開催、地元紙に紹介されたことから、出版へと話が進んだ。

『絵が語る八重山の戦争』は「郷土の眼と記憶」の副題を付けて南山舎から刊行。「国民学校のころまで」「旧制中学校時代(熱血勤皇隊)」「避難地とマラリア」「食糧難とマラリア犠牲者」の4部で構成。合わせて59点の絵それぞれに200~400字の文章がそえられている。

「国民学校のころまで」では、潮平さんの一番古い記憶として、提灯行列が描かれ、「南京陥落、ばんざーい」を大声で繰り返したという。南京陥落は1937年12月。潮平さんはまだ4歳だ。「南京大虐」と呼ばれるおぞましい事件が起こっていたとは知るよしもない。

 潮平さんは小学校4年生のとき模型のグライダーを作り、子どもたちの間でグライダーの飛行時間を競ったという。模型の飛行機を作ることで戦闘機へのあこがれをいだかせ、大きくなったら戦地に行くという気持ちを持たせるのが目的だったようだ、と潮平さん。私も小学校4年生のとき、模型のグライダーを作った。戦後9年がたったころだ。今思えば戦時中の名残であったのかもしれない。

防空壕

八重山では忠魂碑の前で竹ヤリ訓練が行われるようになり、滑走路に草を植える作業に小学生が従事した。飛行場はサンゴを砕いて表面を固めたもので、白くて目立つ。そこで草で覆ってカモフラージュすることになったのだ。各家では防空壕づくりが始まった。庭に穴を掘り、丸太を並べてのせ、土でかぶせるという簡単な構造。防空壕ができるとともに、ひんぱんに空襲があり、壕の中でひざをかかえて、空襲警報の解除を待つのだ。

こうしたひとコマひとコマが素朴なタッチで描き出されている。

子どもに丸見えの慰安所

慰安所

「旧制中学校時代(熱血勤皇隊)」のタイトル通り、中学校の入学式の途中、敵機が飛来して隣の学校を爆撃。式は中断され、目と耳をふさいで敵機が去るのを待った。式が再開され「君たちは今日から熱血勤皇隊の隊員だ」と隊長に言い渡された。そして中古の銃が配られ、実弾が入った銃を持って学校に通う。すでに食糧難が始まっており、クワとカマはいつも携帯。サツマイモを植えるためだ。潮平さんの絵には、直立した中学生が右手に銃を持ち、左側にクワとカマを置いている。

処刑

「石垣島事件」のタイトルで衝撃的な場面が描かれている。アメリカの戦闘機が撃ち落されて沖に墜落。アメリカ兵3人はパラシュートで脱出したが、日本軍に捕まり処刑された。その場面を熱血勤皇隊員だった潮平さんの友人が目撃した。二人の捕虜は両手を後ろ手に縛られ、日本刀で首を切りおとされた。3人目は銃剣で突き殺された。松の木にのぼって処刑の模様をこっそり見る少年が手前に大きく描かれている。戦後、処刑を命令、実行した日本兵は裁判にかけられ、絞首刑になった。

 二つの民家の前に4人の男性が立っている絵がある。何の変哲もないのどかな絵だ。この建物は日本軍の通信施設として造られたが、敵の攻撃を受けたので、この北側に移転。その後、この二つの建物は慰安所になった。絵は夕方、日本兵が慰安所に来たところを描いたもので、班長が「みんな並べ」と号令をかけると、兵隊は順番に慰安所に入ったという。別の絵では日本兵が女性を連れて慰安所に向かう場面が描かれている。「彼女たちの多くは慰安婦として朝鮮などから連れてこられたと、大人になって聞いた」と潮平さんは書いているが、この様子を中学生のときに見ていたのだ。戦争は子どもに見せてならないものまで丸裸にするという、モラルなき状態にするようである。

 石垣島東海岸の玉取崎。その前の小さな岩の島にニセの高射砲陣地が造られた。木の柱を上に向けて高射砲に見せかけ、敵に攻撃させる。(写真右)その敵を高い山から銃撃しようという作戦だ。その狙い通り、敵機がやって来たので銃撃したが弾は当たらない。かえって自分たちのいる場所を教えることとなり、猛攻撃を受けるハメになった。潮平さんは地元住民からこの話を聞き、山の陣地が猛烈な攻撃を受けている様子を描いた。戦争末期の日本軍の哀れな抵抗を示す作品である。

死んだ孫を背負うおじいさん

亡くなった孫を背負う

 いよいよ『絵が語る八重山の戦争』の核心である。「避難地とマラリア」は、2階建ての建物の絵からはじまる。建物は石垣島西部の白水というところの避難地の入り口にあり、住民を監視するために建てられたようだ。

 避難させられた村人たちは野原からカヤを刈り取ってきて屋根をふき、30人くらいが入れる小屋をつくった。山の中にはマラリアをうつすハマダラ蚊がいることを住民たちは知っており、よほどのことがなければ山に入ることはなかった。しかし日本軍の避難命令に逆らうことはできず、山に行くしかなかったのだ。

小屋のまん中の通路で、フーチバー(ヨモギ)の葉をいぶして煙を出し、蚊がこないようにした。だが、避難を始めるとたちまちマラリアにかかる人が出た。マラリアにかかると最初に寒気がする。真夏のカンカン照りのときでも、体がガタガタ震え、1時間ほどすると40度の高熱が出る。絵には額に手ぬぐいをのせた人が描かれている。マラリアにかかったのであろう。マラリアにかかった人は薬代わりにンガナ(苦菜)の葉をすりつぶした汁を飲んだ。キニーネがないのだから次々に死んでいった。

雨戸に遺体をのせて運ぶ様子が描かれている。穴を掘って埋葬するのだ。おじいさんが、死んだ孫を背負ってヨタヨタとどこかに埋葬にいく絵がある一方で、幼い遺体を少年二人がモッコにのせて運ぶ絵もある。潮平さんは、鉄血勤皇隊員として軍の基地建設やタコツボ掘り作業を終えて帰る途中、遺体を運ぶ人たちとよくすれ違った。その向こうで遺体を焼くもうもうとした炎が見えた。この光景は今でもきのうのように思い出すと書いている。

骨が露出する恐怖の浜辺

埋葬

「食糧難とマラリア犠牲者」では凄惨な状況が表される。マラリアにかかった人には熱を冷ますため、頭に水をかけつづける。すると毛根が冷やされて抜け落ちる。マラリアが治っても坊主頭のままだ。潮平さんは風呂敷で頭を隠す女性を描いた。その潮平さんもマラリアにかかり、横になっている自らを絵にした。母親が震える体を押さえ、奥でンメー(おばあちゃん)が心配そうに見つめている。親戚の親子が横になっている絵もある。頭の上にバケツが置かれ、額に水が流れ落ちるよう竹の管が設けられている。この親子は亡くなったという。

胸がえぐられる思いがするのが、娘を埋める母親と息子を描いた絵。父親は出征、火葬にするための薪を集められず、海辺で砂を掘り、土葬にしたのだ。この母親はもう一人の娘もマラリアで亡くしたうえ、自身もマラリアにかかった。病床の枕元に「サン」と呼ばれる二つのわらが置かれている。わらは死んだ娘のマブヤー(魂)だといい、いま八重山平和資料館で保存されている。母親が娘の遺体を埋めた場所に戦後、米軍の施設が造られ、まわりに金網が張られた。母親は金網の外から手を合わせるしかなかった。やがて施設は整地され、遺骨がどこにいったのかわからないままだ。

波照間島から西表島に避難させられてマラリアにかかった女性が親戚の家を訪ねたところ、その家のお母さんは死んでいて、そばで小さな子どもがお母さんのウンチを食べて飢えをしのいでいた。その波照間島では、マラリアが治らないまま西表島から帰ってくる人が少なくなく、次々に死亡。島の北側の浜辺に埋められた。砂が風で飛ばされて骨が砂の上に現れ、墓標も倒れたままの「怖い浜」になった。

キニーネ

本稿の冒頭、将校の宿舎からマラリアの特効薬のキニーネがつまった袋が発見された、と書いた。潮平さんが先輩から聞いた話では、先輩の家は将校の宿舎にされ、一家は追い出された。戦後、将校が出て行ったので家に戻ってみると、押し入れにキニーネがいっぱい入った袋が置かれていた。将校が自分の身を守るために隠していたのはまぎれもない。先輩は「この薬を島の人たちに少しでも分けて飲ませていれば、死ななくてすんだ人がたくさんいただろう」と、ショックを受けていたという。

マラリア地獄と化した島々

怖い浜

同書には八重山地域のマラリア罹患状況が一覧表で添付されている。それによると、石垣島、与那国島、西表島、竹富島、波照間島など計9つの島の1945年時点の人口は19050人。うちマラリア罹患者は10060人(52・8%)、死者は2496人(24・8%)。地区別でみると、石垣島の平得は703人中613人が罹患、死者は264人と43・1%にのぼっており、マラリアの村と化した。同島の真栄里地区も88・5%が罹患し、死者は36・8%だった。潮平さんが「怖い浜」と書いた浜辺がある波照間島は人口1590人中1587人と実に99・8%が罹患、死者は477人(30・1%)に上った。

ところで、同書のなかで『絵が語る八重山の戦争』刊行委員会の三木健委員長は「愚かな歴史を繰り返さぬために」と題する一文を寄せた。「避難先はいずれも蚊が媒介する伝染病・マラリアの流行地で、避難者たちの中から1週間ほどすると発病するものが出た。無防備の避難小屋からは、病床に伏す人のうめき声が次第に増えてきた。マラリアは次々と家族を襲い、避難小屋はマラリア地獄の惨状と化す」としたためた後、死者の数を3647人と書いている。一覧表の数字とは千人以上も異なる。この数字の違いについての説明はなく、私にはどちらを採用すべきか判断できない。いずれにせよ八重山は、三木氏がいうように「マラリア地獄」であったことはまぎれもない。

潮平さんは「国民学校から旧制中学校1年までの思い出は、軍事訓練や軍作業、避難地でのマラリアなど戦争一色」と書いている。その戦争一色を描いたのがこの『絵が語る八重山の戦争』なのだ。沖縄本島には米軍が上陸、悲惨な状況となり20万人以上にも及ぶ犠牲者が出た。その残酷さは多くの写真で表されている。一方、八重山諸島には米軍の上陸はなく、直接敵の砲撃で亡くなった人はそう多くはない。このため、八重山の実相はほとんど知られていない。かくいう私も知らなかった。実はマラリアで4分の1以上の住民が犠牲になっていたのだ。

すでに述べたように八重山に米軍は上陸しなかった。避難しなかったならマラリアで死ぬことはなかったはずだ。仮に避難はやむを得なかったとしても、キニーネの用意があれば、潮平さんの先輩が言うように、死ななくてすんだ人は少なくなかっただろう。要するに住民は見殺しにされたのである。これが犯罪でなくて何であろう。

戦争犯罪は決して敵兵や敵国住民に対する罪だけではない。内なる犯罪も指す。八重山でマラリアにかかって死んだ人たちは、日本軍による戦争犯罪の犠牲者なのである。