編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 001》Lapiz編集長 井上脩身

~立ち退き拒否貫いた在日コリアン~

2021年8月30日、在日コリアンが多く集まる京都府宇治市伊勢田町ウトロで放火事件があった。住宅など7棟が焼けたほか、建設中の「ウトロ平和祈念館」での展示が予定されていた資料50点が焼失、22歳の男が逮捕、起訴された。被告は「在日コリアンに恐怖を与えようとおもった」と、在日コリアンへの差別・憎悪をあらわにし、京都地裁で開かれた公判では「平和祈念館の開館阻止が目的だった」と動機を語った。しかしこの事件にもかかわらず平和祈念館は2022年4月に開館、ウトロの人たちの差別と闘った歴史を学ぶ場になっているという。事件から1年がたつのを機に、同祈念館を訪ねた。

水道のない見捨てられた街
 ウトロ平和祈念館は近鉄京都線伊勢田駅西約600メートルの住宅街の一角にあり、ガラスばり3階建てで、床面積は300平方メートル。2、3階が展示室だ。
私は1階の事務所で斎藤正樹氏が著した『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(東信堂)を参考資料として買い求め、2階に上がった。その入り口に掛けられた「はじめに」と題する説明パネルには「ウトロ地区の始まりは戦争中、京都飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の飯場(宿舎)」とある。

 前掲書によると、1938年、日本政府は宇治市と久御山町にまたがる300万平方メートルの土地に、飛行機製造工場と乗員養成所を併せ持つ京都飛行場の建設を決定。40年に起工式が行われ、41年、ウトロ地区を含む土地約2万1000平方メートルを買収、陸軍の軍需産業であった日本国際航空工業(日産車体の前身)名で所有権登記がなされた。

 飛行場建設工事は労働者2000人、機関車27台、トロッコ600台を要し、安い労働力として1300人の朝鮮人労働者が集められた。この多くは朝鮮半島慶尚南道の農民出身者で、家族持ちも少なくなく、ウトロ地区に設けられた飯場長屋に寝泊まりさせられた。彼らは丘陵の竹やぶをスコップで切り開き、土砂をトロッコに積み込み、滑走路に土砂を降ろすなどの重労働に従事させられた。1945年7月、飛行場は米軍の爆撃を受けて建物が壊滅。日本人女学生6人が犠牲になったが、ウトロの飯場は直撃を免れた。

 戦後、同飛行場は占領軍に接収され、米軍大久保キャンプになった。朝鮮人は何ら補償のないまま飯場に取り残された。民族の誇りを忘れなかった彼らは1945年9月、飯場長屋の間仕切りを取り払って教室にし、子どもたちに母国語を教えるための国語講習所をスタートさせた。やがてウトロは朝鮮半島に帰る人たちの中継基地となり、情報センター的役割を担うようになった。しかし、こうした在日朝鮮人のための活動はGHQと日本政府の弾圧の対象になり、民族学級は閉鎖させられた。

 1953年の台風13号でウトロの60戸すべてが浸水し、97世帯が生活保護を受けることになった。生活苦からヤミ米の買い出しやドブロクの密造などで切り抜ける人もいて、警察に摘発される事態になりながらも、ウトロの人たちは必死に生きた。だが日本が驚異的に復興をしていく中、ウトロ地区は地主である日産車体の承諾がないという理由で、上水道も引かれず、宇治市から事実上見捨てられた。

 1979年、ウトロの住民代表が宇治市に水道を敷設するよう要望。日本人市民が「ウトロに水道施設を要望する市民の会」をつくって後押ししたこともあって日産車体も水道施設に同意。1988年、ようやく配水管埋設工事が始まった。
明日に続く