編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 002》Lapiz編集長 井上脩身

国連がウトロ救済に動く

 祈念館の敷地に移築された民家

前項で見た通り、水道が通るまで戦後33年も要したのである。山間へき地ではない。宇治市の住宅街でのことだ。これ自体信じ難い差別扱いだが、ことはこれだけでは済まなかった。水道工事が始まるのをあざわらうかのように、ウトロの全住民を被告とする「建物収去土地明け渡し訴訟」が提起されたのだ。ひらたく言えば、ウトロから出て行くよう求める裁判である。敗訴となればウトロの人たちはたちまち路頭に迷うはめになる。

この裁判は卑劣な仕業というほかない。水道施設設置に同意した日産車体は宇治市に同意者を提出したその日に、ウトロ自治会長を名のるQなる人物に土地を3億円で売買する契約を締結。Qは西日本殖産という有限会社を設立し、Q自らこの会社に4億4500万円で売却した。いわゆる地上げだ。その西日本殖産が提訴したのである。

裁判で被告の住民側が「20年間所有の意思で平穏かつ公然に他人のものを占有した者はその所有権を取得する」との民法の取得時効の規程に基づき、自分たちに土地・建物の所有権があると主張。これに対し、原告は「ウトロは飯場であった。建物は労働者の所有物であるはずがない。被告側はいつから飯場であった建物に対して所有の意思をもったのか」などと追及。双方が真正面からぶつかり合う中、京都地裁はウトロ住民が一括買い取ることを条件に14億円の価格を示して和解勧告を行った。住民側に買い取る資力はなく、応じられるはずがなかった。裁判は住民敗訴となった。

ウトロ住民側は控訴審に向けて立て直しを図らねばならなかった。勝ち負けは死活問題なのだ。『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』の著者でウトロを守る会副代表の斎藤正樹氏は、甲山事件の支援活動を行った経験をもつ。斎藤氏は国際人権法に居住の権利があることに着目した。

国際人権法は、第二次大戦後国連憲章に人権保護が規定されたことに基づき、国際法の一分野として整備された。批准した国は、世界人権宣言を制度化した国際規約(社会権規約)と、市民的権利に関する国際規約(自由権規約)に拘束される。しかし、自由権規約について、法務省は執行力を持たないとの立場。社会権規約については最高裁が判決で直接適用は認められないとしている。要するにわが国は人権保護に関して極めて消極的な国なのである。

だが住民側は国際人権法を盾に法廷闘争に打って出た。同書によると、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)11条に「締約国は、住居を内容とする適切な生活水準についてのすべての者の権利を求める」と規定。この権利は、「人間としての尊厳が認められる場所で生活する権利」であり、「自己所有、賃貸、避難所、不法占拠などいかなる形態の占有者も、強制立ち退きからの法的保護を保障される」と解釈されているという。

住民側はこの権利に基づき「(強制立ち退きを認めた)地裁判決は憲法98条(国際法規順守)に違反する」と主張した。しかし、2000年6月、大阪高裁は社会権規約に基づく住民の主張を退け、敗訴となった。同年11月、最高裁は上告を棄却、立ち退き判決は確定した。

赤ちゃんを抱き上げる父親(移築民家内の展示写真より)

だが、国際法を振りかざした法廷闘争が敗訴確定後、大きな成果を得ることになった。国連人権高等弁務官事務所に訴えたところ、2001年8月、スイス・ジュネーブの同事務所でウトロ問題について審査が行われた。日本政府の代表は「住民と不動産業者の民事上の争い」としながらも「ウトロ地区の新たな街づくり計画が進行中であり、行政側として支援したい」と答えた。2006年1月、国連人権理事会委員会はさらに一歩進め、「日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべき」と報告した。ウトロの立ち退き問題は国際問題に発展したのである。

2007年12月、国交省、京都府、宇治市によって「ウトロ地区住環境整備改善検討委員会」が発足。同地区内に市営住宅を建設することになった。2018年4月、5階建ての伊勢田ウトロ市営住宅(40戸)が完成。住民や支援者ら約200人が焼き肉パーティーを開いて完成を祝った。現在、その隣に2棟目の住宅が建設中である。

 団結誓う「オモニのうた」

話をウトロ平和祈念館展示場の「はじめに」に戻そう。冒頭の言葉のあと、「朝鮮人労働者とその家族はこの地で厳しい環境に負けず、懸命に働き、助け合いながら活動してきた」といった内容の文言がつづく。「懸命」と「助け合い」が、国際人権法の居住の権利を引きだし、立ち退きを阻止したうえ、市営住宅新築へとつながったのであろう。裁判では負けたが実質的には勝利したのだ。ましてや放火犯の卑小な差別意識に負けるはずがなかった。この祈念館はその勝利の証しなのである。

展示場に入る。展示品の多くは写真パネルである。ウトロ地区の上空写真に胸が痛んだ。狭い道路の両側に軒を連ねる家々はどう見ても物置き小屋だ。屋根はつぎはぎされたり、すっぽりと屋根板が抜けていたりして、人の住居としては極めて劣悪だ。戦災を受けた日本の多くの街ではこのような状態であったと思われるが、やがて新たな街に変わった。しかしウトロでは何ら改善されずに放置されたのだ。

そんななかでも、赤ちゃんを抱き上げる男性の写真を見ると、その表情に明るさが感じられる。縄跳びをする女の子たちのほがらかな笑いに心がなごむ。結婚したばかりと思われる若い夫婦のきりっとした目は、将来の希望を見ているようだ。そんななか、目を奪われたのが民族教育の教室前に勢ぞろいした制服姿の女生徒たち。みんな背を伸ばしきりっとカメラに向かっている。少女たちの意気込みが白黒写真に映し出されている。

1953年の台風でウトロが浸水したことはすでに触れた。その後も浸水被害を受け、2008年6月、4戸が床上で浸水した。そのときの写真が展示されている。しゃれたふすまに赤茶色くにじんだ跡が残っており、「大雨のたび水害がこわい。土地のない生活をしたい」という住民の悲しげな顔は、見る者まで心が曇る。「土地のない生活」というのは近代的アパートをさすのであろう。市営住宅建設は立ち退き対策であるとともに、浸水対策でもあるのだ。

母親の思いを込めた「オモニのうた」(祈念館パンフレットより)

すでに触れたように、2000年に立ち退き判決が確定したが、敗訴なんのそのとばかりに2002年2月、「われら 住んでたたかうウトロ団結集会」がウトロ地区内で開かれ、「オモニのうた」と題する集会宣言がなされた。その「オモニのうた」も展示されている。

 いやや!
どんなことがあっても 私はよそへは行かないよ
(略)
私はひとりぐらし……
この年まで学校には縁がない
具合の悪いときは
近所の人が本当によくしてくれる
(略)
私はウトロのオモニだから
みんな「私」だと知っているから……
どこかよそでは こうはいかないよ
このまちを離れたら
私は私でなくなる……

祈念館の敷地の隅に古い住宅が保存されている。中に入ると十数点の写真が壁に掛けられている。その中の一つ、6人の子どもとともに写るお母さのこわばった表情が印象的だ。「オモニのうた」をおもった。「この子ら守るためにどんなことがあってもよそには行かない」。そんな強い決意を内に込めているように見えた。立ち退きという不条理にうちかったのは、オモニの心の強さがあったから、と私は理解したのである。                               完