徒然の章《サンキュー ベリー ベリー マッチ 001》中務敦行

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市市民会館で、東日本大震災復興支援活動写真展が9月4日に開かれた。同じ会場で在日米陸軍軍楽隊、陸上自衛隊第6音楽隊の復興祈念コンサートも行われ、多数の市民がコロナ禍のなか熱心に災害の様子を写真で見、思い出を新たにしていた。
 私の所属する全国災害復興活動支援機構(NPO法人)は10年あまり前に、広島で生まれた団体で、自衛隊や米軍、警察、消防などのほか、電力、通信、官公庁などさまざまな捜索や復興に関わる団体がその作業中に撮影した写真の提供を受け、多くの皆さんに見てもらい災害への心構え、備えをしてもらおうと始めたもので、2020年に特定非営利活動法人の認可を受けた。当初から西日本を中心に30ケ所近くで展示会を開いてきたが、東京より東での今回が初めてだ。
気仙沼市には大島という離島があり、震災当時はまだ橋がなく海上交通に頼っていた。震災当時は平日の午後、多くの人は島外に出ており、島には女性と年配者、中学生以下の人しかいなかった。船は津波で使用できなくなり、外部からの救援も不可能だった。このため、島では女子中学生が炊事などを担当、男子は飲用水の確保や食料の運搬に当たった。
水が乏しく、学校のプールの水さえも使ったという。
当時太平洋の各地に米海兵隊の艦船が滞在したが、マレーシアに寄港していた揚陸艦エセックスが停電の続く気仙馬大島に電源車を輸送せよ、という指令を受けたのは地震発生から13日後だった。「車両100台、航空機30機、隊員2000人。能力を十分生かせず、いら立ちもあった。海兵隊でなければできない任務がようやく与えられた。『よしやろう』と、士気が高まった」部隊を指揮したアンドリュー・マクマニス元大佐は語る。
震災から17日目、3月27日に先遣隊が大島に上陸した。本土にかかる橋はまだなく、津波で港もフェリーも破壊され、島民は孤立。断水も続き、大勢の人が体育館などで避難生活を送っていた。海兵隊は電源車や給水車、支援物資などを上陸用舟艇で輸送した。4月に入って主力隊が続き、救援物資の配布、仮設シャワーの設置、揚陸した重機での道路整備、がれきの撤去などを行った。活動を終えて引き揚げる際、大勢の島民が岸壁に集まった。子どもたちは手作りした星条旗を振って見送った。掲げられた横断幕にはこうあった。「サンキュー ベリー ベリー マッチ」この日、幼い少女たちも星条旗を振って、名残を惜しんだ。この少女も今は高校生、当日はご両親とそろって会場を訪れた。
私はこれらの写真と会場に訪れた気仙沼の人たちを見て、この人たちは多くのものを失ったけれど、それとは違う貴重なものを授かったと確信した。
明日に続く