宿場町《山陰道・亀山宿(京都府亀岡市)》文・写真 井上脩身

応挙しのぶ山鉾巡行の街

円山応挙像(ウィキベテアより)

 私は二十数年前、美術展の開催に携わったことがある。その最後の仕事は「円山応挙展」の企画であった。円山応挙(1733~1795)は江戸時代の代表的絵師のひとりである。展覧会は、担当を外れて後の2003年に京都国立博物館などで開かれた。今年がその20年目に当たることもあって、久しぶりに図録を開いた。当時は気づかなかったが、応挙が生まれ育ったのは、私が山登りのためにたびたび車で通りかかった京都府亀岡市の運動公園の近くという。応挙は十代前半に京に出ている。ということはいったん亀岡の中心地にでて老ノ坂を越えたはずだ。亀岡は江戸時代、亀山とよばれ、城下町であり宿場町でもあった。応挙は63歳で亡くなるまでの人生のなかで、何度か亀山宿の街道を歩いたであろう。そのとき、絵師として何を思ったのであろうか。今は亀岡市の中心街である亀山宿をたずねた。

孔雀、雪の松、そして幽霊

 まず「近代絵画の祖」といわれる応挙の画業をみておきたい。

重要文化財「牡丹孔雀図」(展覧会図録より)

 最も代表的な作品は「牡丹孔雀図」である。展覧会図録『丸山応挙――<写生画>創造への挑戦』には3点が収められており、大阪・萬野美術館所蔵の応挙39歳、1771年制作の作品は国の重要文化財に指定されている。作品解説によるとクジャクは江戸時代の初めから京・四条河原町で見せ物になっていた。応挙は墨のグラデーションによって立体的な描写をし、その上に墨が透けて見えるように群青の絵の具をかけることで、クジャクの鮮やかな色彩と立体的表現を両立させた。そこに応挙が切り開いた技巧が見られるという。

 以上の分析の上にたって、解説者は「羽根の一枚一枚にまでゆるがせにしない繊細な神経の行き届いた描写をみせ、対象の形態、質感、量感を忠実に再現しようとしており、『実の写生』の代表的作品」と捉える。

国宝「雪松図」(部分)(展覧会図録より)

「牡丹孔雀図」と対照的なのが「雪松図」。東京・三井文庫が所蔵する天明期(1781~1789)の作品で国宝。「牡丹孔雀図」とは逆に、金箔の地に墨だけを使って制作されたようにみえる。解説者は「金、墨、白、この三つの色彩が光り輝く世界を描き出しており、ここに日本の水墨画の新しい胎動を認めることができるだろう」と最大級の評価をしている。

 「牡丹孔雀図」と「雪松図」を合わせたような「松に孔雀図」。兵庫県香住町の大乗寺の客殿孔雀の間の襖絵で、1795年制作。国の重文である。展覧会では孔雀の間を可能なかぎり復元し、同寺で見るような雰囲気をかもし出した。色調は「雪松図」のようにモノトーンにする一方で、クジャクについてはきめ細かく写生している。展覧会の目玉作品であったのはいうまでもない。

 以上の作品とは大いに趣を異にするのが「幽霊図(お雪の幻」。安永期(1772~1781)の作品。アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校に寄託されており、いわば里帰り展示となった。お雪という女性の幽霊姿を表したといわれ、美しいうりざね顔はきりっと口元を結んでいるが、下半身は描かれてない。解説者によると、応挙といえば幽霊と連想されながら、確実に応挙が描いたと認められる幽霊図は多くないらしい。「現実の対象をそのまま描くだけでなく、幽霊のような架空の存在をいかに実感をもって描くか、ということも応挙の写生画のテーマであった」と解説。「瞳の美しさ、視線の冷たいはかなさは、比類のない描きぶりで、恐ろしさよりは美しさが感じられ、以後の幽霊のイメージを確定した」と指摘する。

 展覧会では100点以上の作品が展示された。見逃せない作品ばかりであるが、一つひとつを紹介すればきりがない。ここでは以上の4点だけを頭の片隅の置いておこう。

 図録に収められた佐々木丞平氏(京都大教授、現同大学名誉教授)の論文「応挙の生涯——その人たるも温雅愛すべし—―によると、応挙は「マサタカ」が本来の読み方。応挙は雅号でなく実名なのだ。生地は丹波の桑田郡穴太村。父は農業を営み、母は篠山藩の家臣から嫁いできた。応挙が生まれる前年の夏、瀬戸内海沿岸を中心にイナゴの大群が来襲、畿内以西の稲作は甚大な被害を受け、大量の餓死者が出た。厳しい年貢の取り立ても重なって、多くの農民は第二子以降の子どもを奉公に出さざるをえなかった。第二子である応挙も8、9歳のころ、同じ村にある金剛寺に修行にでる。だが長続きはしなかったようだ。

 当時は13、4歳になると商人や職人のもとに入るのが普通であった。応挙もはじめ岩城という呉服商のもとに奉公し、やがて尾張屋勘兵衛の世話になる。びいどろの玩具や書画骨董を商っていた勘兵衛は応挙の才能を見抜き、狩野派の絵師に学ばせた。ここで応挙は伝統的な画法の基礎を習得、後に大家となる元を築いた。

 明智光秀ゆかりの亀山城下

「旅籠町」の表示がある民家の入り口

 奉公に出るため京を目指す応挙少年は実家のある穴太から、道を東に進んだはずである。その道は篠山と亀山を結ぶ通称篠山街道であろう。現在は片側1車線のこの道を私は何度も車を走らせたので、土地勘がある。まず間違いない。

 その道は子どもの足でも1時間たらずで山陰道と合流し、ほどなく亀山宿の西の端につく。今回私はここから亀山宿探訪をはじめた。JR亀岡駅から歩いて7、8分の所である。

近くに「御作事跡」の説明板が立っている。亀山城の三の丸北西端に位置しており、文政12(1829)年、普請奉行と作事目付各1人、作事23人が藩の建造物の修理を行った、とある。城下町兼宿場町の亀山では、街道も城の任につく武士と旅人が混在していたであろう。

御作事跡から住宅や商店が立ち並ぶなかを、幅約5メートルの道がまっすぐ南につづく。ところどころに古めかしい格子戸の民家がたっている。ほどなく「亀山城大手門跡」と「御勘定所」の説明板。ここは亀山城址の南300メートルの所。亀山城の大手門は山陰道沿いに配置されたのだ。御勘定所の説明板によると、寛政5(1793)年の史料によって、御勘定所があったことが確認されたといい、大目付をはじめ19人が藩の財務、会計に携わっていた。

応挙少年にとって、お城とお城に務める役人は雲の上の世界だ。街道をとぼとぼと歩く応挙少年は、数多くの武士とすれ違ったであろう。おそらく肩をすくめ身を小さくし、おどおどしていたに違いない。

山陰道はほどなく左に折れ、東に向かう。そこは現在も「旅籠町」という町名であることからわかるように、亀山宿の中心である。4階建てのビルの前に「本陣」の立て札。朽ち果てかかっていて、説明文が全く読めない。本陣だからそれなりの宿所があったはずである。その名残がないのは仕方がないとしても、せめて説明板は新しくして、読めるようにするのが亀岡市の務めであろう。

亀山城は明智光秀によって天正5(1577)年に築かれた。光秀が城下町の整備に努める最中に本能寺の変を起こす。その後、小早川秀秋によって修築され、慶長15(1610)年、岡部長盛によって五重の天守閣をもつ近世城郭としての亀山城が完成。明治になって城は廃棄処分となり、所有者が点々として荒れ果て、宗教法人大本教の所有となる。一方、亀山が明治維新後の新しい時代に発展するために市になろうとしたところ、すでに三重県の亀山が市になっていたため、亀岡市に名を改めることとなった。このように紆余曲折を経たことが亀岡市の観光政策に大きく影響したのであろうか。かつての亀山宿を再現しようという積極的な意気込みが感じられないのは残念だ。

 とはいえ、全く名残がないわけではない。旅籠町からさらに東にすすむと東堅町。ここでは切り妻造り虫籠窓、格子窓をそなえた江戸時代をしのばせる民家が何軒かあり、宿場町のたたずまいをそれなりに感じさせてくれている。おそらく国道9号が町を外してつくられたため、旧道が残った結果、古い家も残ったのであろう。

大作仕上げるため郷里に向かう

「松に孔雀図(大乗寺客殿孔雀の間)」(展覧会図録より)

 京に出た応挙はやがて五摂家のひとつ、二条家に生まれた円満院門主祐常の庇護を受けた。『もっと知りたい円山応挙——生涯と作品』(東京美術)の著者樋口一貴氏によると、祐常は日常のことごとを『萬誌』という書物に書き残した。祐常は応挙が確かな筆力を持つことに着目し、万物を写生図の形で写し取るよう指導したのであろう、と樋口氏はみる。祐常は1773年、51歳で亡くなったが、「牡丹孔雀図」はその最後のころの、いわば祐常肝煎りの傑作である。

祐常に代わって応挙の庇護者になったのが三井家。呉服商、両替商を営む三井越後屋は町人階級だ。新興商人の美意識に適応できた応挙は京の上層の町人に広く受け入れられるようになる。応挙は40歳を迎えると屏風作品にも取り組むようになった。

そんな応挙に屏風画の作品を依頼したのが大乗寺の住職、蜜英。1787年、蜜英は直接京都におもむいた。1階の10室、2階の2室の屏風を応挙ら京の一級絵師によって描いてもらおうという遠大な企画である。応挙は孔雀の間など3室を担当することになった。

応挙は京都の大雲院をアトリエにして「松に孔雀図」の制作にとりかかった。ところが天明8(1788)年の天明の大火で大雲院が焼失。「松に孔雀図」など、取り掛かった作品は描き直さねばならなくなった。そこで応挙は郷里の金剛寺を新たなアトリエに選んだ。京の町は焦土と化し、他の地から探すしかなかったのだ。

金剛寺に向かう応挙は少年時代とは逆コースで亀山宿を歩いたはずである。今は押しも押されもしない絵師の大家だ。おそらく駕籠が用意されていたであろう。お城を目にしても何らひるむことはなかったであろう。

こんなふうに思いめぐらしながら歩いていると、「丹山」という酒たるが積まれている店を通りかかった。亀岡市の老舗酒蔵だという。ふと思った。応挙のころ、文化、芸術に関心がある商人が少なくなかったであろう。そういえば、旅籠町の古い民家の玄関に「稲荷山」の札とともに、山鉾の説明板がかけられていた。稲荷山は山鉾の名前に相違ない。

祇園祭りがある宿場

祇園祭で巡行する保昌山

 調べてみると、毎年10月に亀岡祭が行われ、その最大の呼び物が10月23日から3日間繰り広げられる山鉾行事なのだ。色とりどりの装飾がほどこされた8基の曳山と3基の昇山が参加、街を練り回るもので「丹波の祇園祭り」ともいわれている。亀岡祭のHPによると、延宝年間(1673~1681)に5、6人の町衆が発起して金を出しあい、神輿2基を発注、現在の祭りの骨格を築いた。1749年から1757年にかけて山鉾が次々に造られ、町衆の祭りとして発展、現在の形態になったという。

1757年といえば応挙25歳、絵師としての基礎が身についたころだ。祭りは奇しくも応挙の絵師としての成長に合わせるように成長したのだ。応挙が「松に孔雀図」を描くために金剛寺に向かったことはすでに触れた。応挙は山鉾が巡幸する街道を歩いたのである。祭りを支える亀山宿の商人たちは大いに潤い、文化・芸術への目も肥えていたであろう。丹波の誉である京の絵師を亀山の町衆が放っておくはずがあるまい。

 ここまで書いたとき、京都の祇園祭の山鉾巡行が3年ぶりに行われた。NHKの特別番組を見ていて、応挙が祇園祭とかかわっていたことを知った。保昌山のタベストリーの下絵を描いていたのだ。保昌山は謡曲『花盗人』にうたわれている平井保昌と和泉式部の恋にまつわる説話からその名がつけられたもので、応仁の乱以前から巡行に参加していた。応挙が下絵を描いたのは前懸けの1点と胴懸けの2点。写生を元に精緻に描かれており、丁寧に施された色合いも美しいと美術史的にも高く評価されている。この下絵を元に、1773年に刺繡が施されたことが史料から確認されている。

 応挙は1784年、月鉾の軒裏の下絵も手掛けている。そしてこの4年後に金剛寺に向かったのだ。

重要文化財「保津川図」(部分)(展覧会図録より)

 亀山宿の街道に面して「八坂神社」という小さな祠がある。創建時期が不明だが、応挙のころすでに建っていたのかもしれない。祇園祭はいうまでもなく京都・八坂神社の祭礼だ。亀岡の八坂神社も「丹波の祇園祭り」と無縁ではあるまい。応挙がこの亀山の八坂神社の前を通りかかったとき、京の祇園祭への強い思いがよみがえる一方で、古里・丹波の祇園祭りにも大いに関心を持ったにちがいない。亀山の町衆は応挙が京・祇園祭山鉾の下絵を描いたことは知っていただろう。応挙は大いに歓待され、二つの祇園祭で盛りあがったかもしれない。

 応挙は最晩年の1795年、「保津川図屏風」(重文)を描いた。保頭川は亀山宿の北約1キロの所だ。亀山宿を通ったとき、保津川にも足を延ばしたであろう。郷里への思いを込めて、流れを悠然と描いたこの作品は応挙の絶筆である。