連載コラム・日本の島できごと事典 その77《怒りの孤島》渡辺幸重

映画『怒りの孤島』のポスター

1958(昭和33)年2月封切りの『怒りの孤島』という映画を、私は子どもの頃に移動映画で観た記憶があります。汚い檻の中に“オオカミ少年”のような男の子が閉じ込められ、みすぼらしいなりの少年数人が島を脱走する映像がショッキングでした。同じ島の人間として、島社会の“闇”をえぐられているような気がしてその記憶を封印しましたが、映画では「愛島」となっている島は瀬戸内海の情島(山口県)で、実際にあった事件がモデルであることを大人になって知りました。梶子(舵子)として雇い入れた少年たちへの虐待の表現には曲解や誇張もあり、その後、島では少年虐待のレッテルを払拭するための努力があったこともわかりました。第二次世界大戦直後の激しく変化する社会の中で島の古い因習も国民の社会意識も大きく変わる過渡期のできごとでした。
 映画は、瀬戸内海の小さな島(愛島)に鯛の一本釣りの梶子として連れてこられた7人の少年が、島での苦しい仕事や虐待から逃れるために生死を賭けて逃亡するという物語で、島の実情が明るみに出たことで警察が調査に乗り出し、梶子たちに新しい日がさしはじめたというストーリーが描かれています。「鰯を盗んだというだけで、小さなエサ箱にとじ込められ、食物を断たれていた」「憐れな少年はエサ箱の中で飢死していた」という場面があり、私が最もショックを受けたところですが、私の記憶にあった“檻”は「ダンベ(魚の餌を生かしておく箱)」だったようです。
情島の周囲は高級魚「桜鯛」の好漁場で、潮流が速い瀬戸で潮の流れを上り下りしながら一本釣りを行うため船の方向を一定にする梶子が必要です。大正時代から梶子不足になったため愛媛県から貧しい家庭の子供(「伊予子」)を雇うようになりましたが、昭和初めから第二次世界大戦中にかけての労働力不足によって九州や宇部方面にまで募集範囲が広がり、さらに呉の救護施設や広島の感化院から子どもを貰い受けるようになりました。終戦直後は原爆が落とされた広島の巷から浮浪児を直接連れてくることもあったそうです。梶子制度は動力船が普及する1955(昭和30)年ごろまで続きました。
映画のモデルとなった梶子事件は2度起こりました。はじめは1948(昭和23)年7月に情島の南西に浮かぶ屋代島(周防大島)で保護された二人の少年の話から発覚したもので、感化院から貰い受けた15歳の梶子Kが悪性の腸カタルに罹ったため食事が制限されたものの“異常食欲”のため盗み食いの習癖が激しく、雇い主が戒めとしてエサ箱に監禁、食物を与えて20日間放置したところ1946(昭和21)年4月に死亡したという事件でした。雇い主は広島高裁で懲役1年の実刑判決を言い渡されました。
第2次梶子事件は1951(昭和26)年5月に起きました。15歳から18歳の梶子5人がモーター漁船で集団脱走し、広島に汽車で向かうところを鉄道公安員に見つかったというものです。2度目ということでマスコミが大々的に取り上げ、新聞では「里子の恐怖に戦(おのの)く」「殺されても帰らぬ 脱走少年が語る情島の奴れい日記~改まらない差別待遇~」などと報道され、国会でも典型的な人身売買の事例として取り上げられました。その後、この事件を題材にしたNHKラジオドラマ『舵子(かじっこ)』が1954(昭和29)年8月に放送され、さらに1957(昭和32)年に制作された映画『怒りの孤島』が文部省特選映画として全国の多くの小学校で巡回上映されたのです。
あたかも「奴隷の島」「人買島」として報じられ、大きな精神的打撃を受けた情島の人たちは口を閉ざすようになり、一方ではその汚名を晴らそうと私財をなげうって児童養護施設を開設するなどの努力が続けられました。
戦後の民主化によって国民の人権意識が高まるものの浮浪児対策が後手に回るという社会のギャップの中で島の梶子制度は現実以上に悲惨に描かれました。山口県立大学の加登田恵子は論文の中で「梶子事件等の『家庭養育雇用』は『封建遺制』の象徴として取り上げられ、社会的バッシングの対象となった。島民の痛みは、貧しかった日本の農山漁村の痛みであった」と指摘しています。