連載コラム・日本の島できごと事典 その80《神功皇后》渡辺幸重

対馬にある神功皇后の腹冷やし石(ブログ「対馬びっくり箱」より)

2世紀後半から3世紀にかけて仲哀(ちゅうあい)天皇とその后である神功(じんぐう)皇后がいたそうです。仲哀天皇は有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)の子にあたりますが、ここでは天皇の死後に国を治めたという神功皇后の話をします。

 『古事記』『日本書紀』によると、神功皇后は新羅(しらぎ)征討の託宣が出たため、自ら兵を率いて朝鮮半島を攻め、新羅の国を降伏させました。これを「新羅征討」「新羅討伐」「神功皇后の外征」などといいます。新羅のほか『古事記』では百済(くだら)、『日本書紀』では百済・高句麗(こうくり)も朝貢を約したといい、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたので「三韓征伐」とも呼ばれます。ただし、その範囲は高句麗を除く朝鮮半島南部(馬韓・弁韓・辰韓)に留まるという説もあります。
神功皇后の朝鮮半島出兵にまつわる伝承は西日本各地に伝わっており、神功皇后に関連する神社や地名などは山口・福岡・佐賀・長崎・大分・宮崎の6県だけでも3,000カ所に及ぶといわれます。神功皇后が福岡から壱岐・対馬を経て朝鮮半島を攻めたとき妊娠していたといい、出産を遅らせるためにお腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、お腹を冷やしました。現在の博多駅の南東に当たる宇美町(うみまち)は帰国後の皇后がのちの応神天皇を産んだところ、志免町(しめまち)は“おしめ”を換えたところといわれています。

 壱岐・対馬には神功皇后ゆかりの地名や行事、施設がたくさんあります。対馬には、皇后が休んだ腰掛石や腹冷やし石といわれる高さ約1mの「白石」があり、朝鮮半島からの帰途、天神地祇(天つ神・国つ神)を祀った厳原八幡宮神社もあります。地名では、雷浦は皇后一行が雷雨に遭ったところ、綱掛崎はそのとき船を岸につないだところです。鶏が鳴いて皇后に集落があることを知らせたという「鶏知(けち)」という地名もあります。

 壱岐島には、八幡神社に鎮懐石が、爾自(にじ)神社に追い風祈願の折りに石が割れて東風が吹き始めたという東風石(こちいし)があり、そのときの行宮(あんぐう)が起源とされる聖母宮(しょうもぐう)や凱旋の際に住吉三神を祀った住吉神社があります。「勝本(かつもと)」という地名は、行きにはいい風が吹いたので「風本」としたものを帰りに勝利を祝して改めたと伝えられます。また、島内の湯ノ本温泉では応神天皇を出産した際に産湯を使ったとされています。

 第二次世界大戦後、神功皇后の話は神話の世界で皇后は実在しなかったという説が主流になりました。しかし、伝承の多さから実在したとみる研究者もいます。応神天皇の出産地も宇美、壱岐のほかに天草下島の南東に位置する無人島「産島(うぶしま)」があり、産島八幡宮の池の水を産湯としたと伝えられます。佐賀県唐津市の加唐島には着帯式(帯祝い)を挙げた「オビヤの浦」という地名があり、神集島(かしわじま)は神功皇后が神々を集めて軍議を行った地とされます。長崎市の神楽島(かぐらじま)では神功皇后が朝鮮半島からの帰りに神楽を奉納したそうです。皇后が実在したかどうかはともかく、ゆかりの地は現実に広く存在しています。