連載コラム・日本の島できごと事典 その83《尾崎放哉》渡辺幸重

「咳をしても一人」

尾崎放哉の句碑(「名歌鑑賞」より)

 最も短い俳句といわれるこの句は尾崎放哉(ほうさい)が瀬戸内海の小豆島で詠んだものです。「いれものがない両手でうける」という句も代表作の一つです。放哉は種田山頭火と並び称される自由律俳句を詠む放浪の俳人で、山頭火は“動”の俳人、放哉は“静”の俳人と言われます。放哉は晩年を小豆島で過ごし、1926(大正15)年に41歳で亡くなりました。島内には句碑や墓、尾崎放哉記念館などがあります。

 放哉は1885(明治18)年に鳥取県で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、生命保険会社などに勤めたあと38歳で妻や職を捨て、身一つで寺を転々としながら句を詠む生活に入りました。京都や須磨(神戸市)、小浜(福井県)で寺男や堂守として暮らしたあと、40歳の時に荻原井泉水(せいせんすい)の世話で小豆島西光寺の奥院・南郷庵(みなんごあん)の庵主として小豆島に移りました。亡くなるまでの8ヵ月間をここで暮らし、多くの自由律俳句を残しています。なお、「妻を捨て」と書きましたが「妻に離縁された」「一緒に死んでくれと言われた妻があきれて放哉の元を去った」という記述もあるので放哉が捨てられたのかもしれません。

 放哉は気ままな暮らしぶりから「今一休」と称され、島での評判はすこぶる悪いものでした。放哉の伝記的小説『海も暮れきる』を書いた吉村昭は島の人から「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたそうです。吉村も「(放哉は)金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物」だったとしています。放哉の書簡に周辺住民の悪口を書いたものがあるようで、自分勝手な人付き合いの悪い人間だったのかもしれません。一方で「純粋すぎて、世の垢にまみれることができなかった」「独居無言の生活に憧れたのに、死ぬまで淋しいと繰り返した矛盾だらけの正直すぎる人」という見方もあります。「放哉は死の3年前に実社会と離れてから深い孤独を感じて苦しんでいたが、一方で無常観が生む透明感、達観した洒脱味などで逆に句は冴え渡っていった」という評には納得させられました。

 今でこそ多くの人に感動を与える放哉の句ですが、句集が出版され、俳人として評価を受けたのは死後のことです。辞世の句は--

「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」