心象《丹波の国》片山通夫

丹波の国とは、古くは「たには」とも称し、「旦波」、「但波」、「丹婆」、「谿羽」などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。 その中心となるのが京都府亀岡市と福知山市と兵庫県丹波篠山市ではないだろうか。

ボクはこの町が好きだ。もう何年も通っている。好きな理由のひとつに昔の日本が垣間見ることができること、それとボクは決して芸術家でもないが、その昔土門拳という大写真家がおられた。その大写真家がこの町の近くの立杭焼(丹波焼)の窯を撮ったことがあった。おそらく粘りに粘った撮影行だったと思う。その大写真家の作品を見て感動したことがあった。窯の中だったか、周りの土にまぎれていたのだったかは知らないが、古陶のかけらを撮った作品があった。大写真家が撮るとかけらも大きく意味があるなんて思ったことを思い出してまた妙に感心する。ちょっと登り窯で探してみたけどあるわけがない。しかしボクはこの町が好きだ。山の斜面を利用して陶器を焼く為の窯だ。下の方から主に松の薪を燃やす。熱はどんどん斜面に沿った窯の中を登ってゆく。その窯の中にも陶器がおいてある。途中の窯にも薪を補給する入口がレンガなどで空いている。炎の具合なども確かめられる実に合理的な窯だ。平均しておよそ3日程度焚き続ける。薪は松材だと聞いたことがある。

ボクは丹波篠山の記事や写真を本号に載せるにあたってかなり考えた。巨匠に比べるべくもないが、考えるために車で行かずに電車で行った。時間にして片道およそ2時間。ちょっとした旅を楽しめる。その間車窓から見える風景を楽しみ、目的地に近づくにつれて気分が撮影気分に変化してゆく。つまりテンションが上がる。駅からバスに乗って城下町の中心まで行く。そう、丹波篠山はお城のあった城下町だった。城跡の石垣には築城時の縄張りを示す彫刻が残っている。石垣は短期間に多くの大名によって築かれたため、建築現場や石の切り出し場は大変混雑し戦場のようになり、工事に関わった大名たちは、石の取り合いで争いが起きないよう自分の持ち場で用いる石に印(符号)を付けた。これを「刻印石」というらしい。そんなこんなで丹波篠山の写真を2回に分けて(本編を入れて3回)お届けする。(明日に続く)